東京旅行二日目(4)。ボロ市通り沿いの世田谷代官屋敷。区立郷土資料館で北条幻庵覚書も拝見

東急世田谷線世田谷駅から歩いて参ります。

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世田谷の街は、世田谷代官のお膝元らしいです。

心が引き締まります。

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世田谷には代官がいてお城跡があって寺院もあって、見るべき史跡が多いのです。

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街路樹の緑が目に嬉しい。

最初の目的地、都史跡の世田谷代官屋敷を目指しております。

お代官様のお膝元から、お代官様ににじり寄って行きます。

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代官屋敷は「ボロ市通り」という通り沿いにあるらしいのです。

ボロ市って名称は衝撃的でした。

代官屋敷がありそうな響きではないですね。

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ここがボロ市通りだそうです。

特にボロボロした雰囲気もなく、拍子抜けしました。

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ボロ市通りで間違いなし。

由来が気になりますね。

ちなみに夏にはこの界隈で「ホタル祭りとサギ草市」って催しもあるそうです。

街中なのに、世田谷でホタルが見られるんですかね。

謎が深い界隈です。

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ボロ市通りの正式名称は桜栄会商店街というのですね。

いつでもボロ市通りでは外交上の支障が出ることもあるのでしょう。

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ボロ市通りを進んで、代官屋敷の茅葺屋根が見えてまいりました。

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表門も茅葺屋根で、立派です。

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正門は閉まっていますので、駐車場入口から敷地内に入ります。

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母屋の前に立ちました。

この代官屋敷はもともとは、世田谷代官だった大場氏の私邸だったものです。

大場氏は、中世に世田谷の領主だった世田谷吉良氏の重臣を務めていた家柄です。

主の世田谷吉良氏は、戦国時代には関東一円を支配する後北条氏の傘下で、世田谷を治めていました。

豊臣秀吉による小田原攻めで後北条氏が滅ぶと、世田谷吉良氏も世田谷の支配権を失います。

主を失った大場氏は帰農しました。

この大場氏が江戸時代の半ばに至り、世田谷を領有する彦根藩主井伊氏に起用され、代官を勤めるようになったのです。

当初は農家のまま代官職に起用された大場家ですが、後には士分に取り立てられ、幕末まで代々代官の家柄として続きました。

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代官に選ばれたということは、大場氏は世田谷でも有力な農家、つまり庄屋か名主と言われる立場だったのでしょう。

代官屋敷はその私邸なので、農家の住宅の風情を残しているのですね。

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古民家然としていても、そこは代官屋敷なので、母屋の外には白州跡もあります。

よく時代劇で、下手人が引き立てられてきて膝をつかされ、「面を上げい!」と上から言われるあの場所です。

引き立てられたくないですね。

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母屋併設の内蔵の中に、ボロ市の由来について書かれた説明版が掲げられていました。

この文章によると世田谷では戦国時代、この土地を交通の要衝と見た後北条氏によって市が奨励され、商人も集まり繁栄していたそうなのです。

ところが後北条氏滅亡後、関東の中心が遠い小田原から世田谷近郊の江戸に移ると、世田谷の商人たちは江戸に活動拠点を移すようになってしまいました。

もともと世田谷にあった市の規模は縮小し、近在の農家向けの農具を中心に扱う「ボロ市」として存続したそうです。

何か物悲しい話ですけれど、ボロ市の名称は後北条から豊臣、徳川と主が移っていく時代の転換期にあって生まれたものだったのですね。

そしてかつてのボロ市は、今のボロ市通りの辺りに開かれていたのですね。

 

代官屋敷の母屋がある庭園を通り、敷地の奥に行くと、世田谷区立郷土資料館が建っています。

昭和39年に開館した施設で、「都内最古の公立地域博物館」なのだそうです。

こちらの展示で、世田谷区の歴史について一通り学べます。

また大場氏と、そのもともとの主筋にあたる世田谷吉良氏についての展示も豊富でした。

吉良氏は三河国(現在の愛知県南部)発祥の一族で、室町幕府将軍足利氏の支流にあたります。

この吉良氏の中から、幕府より「奥州管領」という役職を任命されて東北全土を支配した、奥州吉良氏という家柄が生まれました。

この奥州吉良氏が後に奥州の支配権を失い、関東に移住します。

関東で勢力を盛り返し、世田谷に本拠地を定めました。

これが世田谷吉良氏です。

世田谷吉良氏はつまり、奥州吉良氏の後裔にあたるのですね。

戦国時代には政略結婚を通して後北条氏の傘下に入りますが、地域に独立した権力を有していました。

この世田谷吉良氏に関わる史料として「北条幻庵覚書」という古文書が有名で、この世田谷資料館に所蔵、公開されているのです。

北条幻庵覚書は北条幻庵(ほうじょうげんあん)によって記されました。

幻庵は後北条氏の初代当主北条早雲(ほうじょうそううん)の子息にあたります。

父早雲から後北条家最後の当主氏直(うじなお)まで五代の当主に仕えた、当時としてはとても長命な人物です。

彼は一族の長老として、後北条氏の関東支配を長らく支えました。

この幻庵が、後北条氏の姫君が世田谷吉良氏の当主に嫁ぐ際に、覚書として各種の心得えを事細かに書いて送っているのです。

幻庵の人柄を示すと共に、当時の武家のしきたり等もうかがえる、貴重な史料なのですね。

この中世の歴史好き界隈には有名な北条幻庵覚書の現物が公開されていて見学できるのは、嬉しい限りです。

古文書が読めないと内容まではわかりませんけれど、筆跡などから筆者の人柄はしのばれますね。

北条幻庵覚書の達筆な筆跡を眺めて、戦国時代の武家の生活に思いを馳せました。

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世田谷代官のお膝元から、このまま近隣にある旧領主世田谷吉良氏の史跡群を目指して、世田谷の散策を続けます。

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