東京旅行三日目(4)。四谷歩き。四谷は伝説の多い土地
新宿御苑の大木戸門から外に出て参りました。
新宿通り沿いにある新宿一丁目の交差点に、文芸社の社屋を見つけました。
四谷区民センターの一角に石碑が立っています。
「水道碑記」とあって、玉川上水の水道の開削を記念するものでした。
江戸時代、ここには玉川上水水番所があったそうです。
遠く多摩川から玉川上水で引いてきた水を地下水道によって江戸市中に供給していました。
玉川上水水番所では水量の調整、ごみ除去による水質の保持を行っていたそうです。
現在でいうところの水道局の役割を担っていたのですね。
現在も四谷区民センター内には東京都水道局の新宿営業所が入っています。
四谷四丁目の交差点ですね。
江戸時代にはここに四谷大木戸という大きな木戸があったそうです。
木戸は、街道沿いの街の出入り口に設けられていて、日が落ちると閉めて人の出入りを制限した設備なんですね。
ある種の関所と言っていいでしょう。
今この交差点を東西に通っている国道20号線がかつては甲州街道で、四谷大木戸によって江戸と甲州方面を行き来する人の流れを調整することができたわけですね。
交差点に面したビルの上に目を引く大きな広告看板群が掲げられていて、四谷って開放的な街なのかな、という感想を持ちました。
この開放的な交差点を右に曲がり、南北に走る外苑西通り沿いに南に向かって歩きます。
外苑西通り沿いにこちらも出版社、ポプラ社の社屋がありました。
小学生の頃、ポプラ社の児童書を学校図書館で読んだ記憶があります。
ここにあったのですね。
ポプラ社の社名って近所の新宿御苑に生えているポプラの木から来ているのかな、と想像しました。
外苑西通りの先で住宅地の中に入ると、新宿御苑を背景にして神社があります。
多武峰内藤神社です。
この付近一帯の広大な土地を治めていた内藤清成(ないとうきよなり)が、先祖にあたる藤原鎌足(ふじわらのかまたり)公を祭神として祀った神社なのです。
奈良の多武峰には藤原鎌足公を祀る談山神社がありますから、多武峰の社号はそれにあやかったものなのでしょうね。
境内には「駿馬塚」という場所もあります。
内藤清成には、徳川家康から「馬に乗って一息に駆け抜けただけの土地を授ける」と言われ、駿馬に乗って駆け抜けた範囲の領地を丸々手に入れたという伝説があるのです。
その際に無理をした駿馬は息絶え、それを清成が屋敷地の一角に葬り塚を建てたのだとか。
徳川家康が内藤清成に馬の走った分の範囲を与えたというのは史実ではないでしょうが、あまりに清成が授かった土地が広大だったために、そんな伝説が生まれたのでしょう。
新宿御苑の付近は江戸と甲州とを繋ぐ軍事的な要衝だっただけに、信頼の置ける家臣に任せた、というのが実際のところのようです。
内藤清成は、家康からの信頼が厚かったのだと思います。
可愛らしいお馬さんの像も奉納されております。
広大な土地を勝ち取る駿馬には恵まれませんが、私の脚も捨てたものではありません。
新宿御苑よりも遠くへ遠くへ歩いていきます。
国道20号線に戻り、東へ向かいます。
ところで四谷発祥の食品スーパー、丸正食品の総本店が20号線沿いにあるのです。
その店先に、不思議な場所がありました。
なんだか雰囲気が、大阪の法善寺の水掛不動尊みたいです。
近づいてみると「お岩水かけ観音」とあって、はっとしました。
四谷は、お岩さんで有名な「四谷怪談」の生まれた土地だったのですね。
観音様の傍らの説明文を読みました。
付近には江戸時代から、お岩さんを祀るお岩稲荷があって。
そのお社が戦災で失われた後、地元の人たちで再建したのだそうです。
その再建の世話人として丸正の創業者が関わった縁で、社屋建築の際に併せてお岩水かけ観音を祀ったということでした。
私は現地に来てもすっかり忘れていて何気なしに歩いていましたが、四谷というのは江戸時代の人心に広く浸透した、有名な伝説を抱えた土地なのでした。
それにしても、お岩さんを観音様として社屋の入口脇に祀ってしまうとは。
丸正の創業者の心意気といいますか、郷土愛を感じました。
丸正総本店の中を見物ついでに買い物していけばよかったのですが、歩くのに夢中の私はそのまま進んでしまいます。
ビル上のヘリポートに消防署のヘリコプター、初めて見ました。
後で調べたところ、四谷消防署と東京消防博物館の入った建物でした。
この建物の角の四谷三丁目交差点で、20号線と外苑東通りとが交差しています。
20号線を左に曲がり、今度は北に外苑東通りを行きましょう。
四谷から離れて、北部を東西に走る靖国通りに移るつもりなのです。
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