言い訳の東京旅行一日目(4)。浜離宮庭園の新銭座鴨場。徳川家愛好、鷹狩りの名残り
東京は竹芝ふ頭があったりお台場があったり、都会のすぐ近くに港と海があるのが素敵ですね。
都立竹芝ふ頭公園から少し歩いて、浜離宮庭園に来ました。
東側は東京湾、北側は築地川、南側は汐留川、西側は水路。
四方を水の流れに囲まれた、広大な敷地を持つ浜離宮庭園です。
もともと徳川将軍家の鷹狩り場だったのを、承応3年(1654年)に徳川4代将軍の弟の松平綱重(まつだいらつなしげ)が別邸を建て、後にこの別邸が将軍家の別邸として使われるようになったのを機に「浜御殿」と呼ばれるようになったそうです。
明治維新後には皇室の離宮となって名称は「浜離宮」に転じます。
そして戦後皇室から東京都に下賜されて、浜離宮庭園として一般公開されるようになったのですね。
入口で入園料300円を支払い、中に入ってきました。
去年入った新宿御苑を思い出しました。
時々小雨が降るせいか、地面がぬかるんでいる箇所が多々あります。
森の中に、得体の知れない木造施設があるんですよ。
「小覗(このぞき)」っていうらしいんですけど。
小覗の覗き窓の向こうに水路らしいものが見えます。
覗き窓の横には木の板と木槌が用意されています。
小覗の中から見えていたこの水路、「引掘(ひきぼり)」と言うそうです。
そして小覗、引堀等のあるこの施設全体を「鴨場(かもば)」と言います。
鴨場というのは、つまりは鷹狩りのための施設なんです。
大名家の別荘地等は、この鴨場を併設していること多かったそうです。
特に歴代の徳川将軍は、初代の徳川家康以来、鷹狩りを愛好してきました。
浜離宮庭園には新銭座鴨場と庚申堂鴨場の二ヶ所の鴨場があって、今私がいるのは新銭座鴨場の方です。
浜離宮庭園は、もともとは将軍家の鷹狩りのために整備された場所だったのですね。
鴨場の仕組みを簡単に説明しますね。
両側を土手に挟まれた水路、引堀の先には「元溜り」という池があって、そこに飼いならされたアヒルが放されているのです。
このアヒルは囮です。
アヒルがいることに安心して、野生の鴨など水鳥も元溜りに集まってきます。
鷹狩りの際、小覗きで鷹匠が木の板を叩いて音を鳴らしながら、引掘に餌を撒きます。
アヒルが集まるのに釣られて、水鳥たちも狭い引掘の間にやってきます。
引堀の両側にある高い「小土手」の上には鷹を連れた鷹匠たちがそれぞれの配置で待ち構えています。
小土手が視界をふさぐので、泳いでいる水鳥の群れは待ち構える鷹匠たちに気付きません。
水鳥の群れが引掘に充分引き付けられたその頃合を狙って、小覗にいる鷹匠が引堀の鷹匠たちに合図します。
その合図で一斉に鷹を放して、水鳥たちを襲わせるのです。
水鳥を逃すと逃げた水鳥はこの鴨場の元溜りが罠であると他の水鳥に知らせてしまうので、一匹残らず鷹に仕留めさせたといいます。
徳川家康が鷹狩りを愛好したということは私も聞いたことがあったのですが、鷹狩りの実際はよく知りませんでした。
鴨場での鷹狩り、現代人の感覚からすると、水鳥を騙し討ちにするかなり残虐な催しです。
騙し合い、殺し合いの戦を生業とした血生臭い武家の風習が、平和な江戸時代にかろうじて水鳥を対象とした遊猟という形で残ったといいますか。
鷹匠を配置して、一瞬の機を逃さずに鷹を放つやり方など、戦の兵の用法に共通するところがあるように見えますね。
武家の棟梁として君臨する徳川家だけに、伝統的な一種の軍事訓練としても、鷹狩りを欠かすことができなかったのでしょうね。
元溜りも見てみましたが、アヒルが飼われていないせいか、水鳥もいません。
この大きな池そのものが水鳥の命を奪うためにこしらえられた罠だと考えると、見ていてちょっと具合が悪くなりそうです。
綺麗な池ですのにね。
「大覗」といって、元溜りを上から見下ろして水鳥の集まり具合からどの引掘で鷹狩りを行うか確認する場所です。
ひとつの元溜りに、いくつもの引掘と小覗がつながっているんです。
小覗を引堀側から見るとこういう具合です。
小覗から竹の筒が引堀に繋がっていて、その筒を通して穀類からなる餌を投入できるようになっています。
何かと大掛かりな施設なんですよね。
こんな大掛かりな施設までこしらえて・・・。
水鳥たちを騙して一網打尽にする鷹狩りはエグイ。
でも正直なところを言うと、鷹たちが飛び立った水鳥たちを追い空中で仕留めていく光景、圧巻だろうな、とも思えて。
見てみたい気持ちもあるのでした。
鷹を自在に操る鷹匠の技術にも興味があります。
監視小屋風の小覗があります。
これはむしろこっちが覗かれていそうな覗き窓群ですが。
水鳥がいないので今日の鷹狩りは中止です。
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