言い訳の東京旅行一日目(6)。中央卸売市場移転後の築地。築地本願寺、浅野内匠頭邸跡もあります
大手門から築地まですぐです。
朝日新聞社の社屋が右の方に見えました。
450メートルはすぐと言っていいでしょう。
「食のまち『築地』へはこの地図で。築地場外市場」。
築地にあった「中央卸売市場」は豊洲に移転しましたが、築地場外市場は残っています。
場外市場が築地を守る!という意気込みを感じます。
実際の状況はこれから見に行きます。
営業を停止した中央卸売市場築地市場の建物は現在解体作業中でした。
何年も前に来ましたが、周囲の風景がなんとなく変わっているような気がします。
前は築地市場の周りにもう少しビルが多かったような…。
築地市場の建物を見るのもこれで最後なんですね。
名残惜しいですね。
建物の周囲はフェンスに囲まれてあります。
中央卸売市場は施設の老朽化で豊洲に移転したってことなんですね。
すでにその豊洲市場が営業を開始して、観光客の来場も多いと聞きます。
今後、築地市場の無くなった築地の街はどうなっていくのでしょうか。
観光地としての築地の今後については、築地場外市場の動向が鍵となっていくのだろうと思います。
「もんぜき通り」で商店が軒を並べていますね。
もんぜきと言うのはおそらくは仏教用語の「門跡」で、ネットでちょっと調べてみても意味がいろいろあって解釈が難しいんですね。
ただざっくり言うと、皇族が代々住職を務める寺格の高い寺院のこと、もしくはそうした寺院の住職のことを門跡と称するんですね。
もんぜき通りの近所には築地本願寺(本願寺築地別院)があって、本願寺も歴史的な経緯からこの門跡に連なるそうで。
それなのでもんぜき通りも、おそらく本願寺由来の通りの名称ではないかと思います。
築地市場から、もんぜき通りを進めば築地本願寺に行けるんですね。
築地市場の裏手に向かう通りに、築地場外市場のお店が並んでいます。
わりとにぎわっていますね。
築地の今後を心配したのに、杞憂だったようです。
もんぜき通り沿いのこの並びに、ラーメンとかお蕎麦とか、立ち食いできる人気の飲食店もあるんですよね。
大通りから細い路地に入ると、飲食店に海産物等の卸売店がひしめいていて、小売をやっているお店も多いんですね。
中央市場が移転しても、観光客は結構多くて、活気がありました。
築地場外市場は築地場外市場で、人気の観光地としてずっと続いて欲しいと思います。
などと言いつつ、私は特に買い物もせずに築地場外市場エリアを通り抜けてきました。
いまだラーメン二郎が尾を引いて食欲が満たされているので、飲食関係は素通りです。
近所の築地本願寺にお参りしていきます。
築地に来たらお参りしないともったいない、というもったいない根性です。
素晴らしい建築なんですね。
昭和九年、西本願寺(浄土真宗本願寺派)二十二世法主の大谷光瑞(おおたにこうずい)からの依頼で、建築家の伊藤忠太(いとうちゅうた)によって設計されました。
インドの建築様式を取り入れた寺院建築です。
大谷光瑞という人物自身がインドに渡って仏教遺跡の調査をしたり、後にはインドに「大谷探検隊」を送ったりと、インドに傾倒した冒険家的な面白い側面を持っていたのです。
昔読んだ伝奇小説の『帝都物語』では、大谷光瑞は妖しい魅力を持った豪傑として描かれていました。
私は『帝都物語』で大谷光瑞と築地本願寺を知り関心を持って、以来築地に観光に来た折には築地本願寺にお参りしています。
東京の近代の名残りを残す素晴らしい場所ですね。
本堂に登る石段の両脇には聖獣が控えています。
狛犬のご先祖を見るような気持ちです。
ステンドグラスですね。
内装外装の意匠も素晴らしいです。
本堂内部には仏教寺院には珍しい大きなパイプオルガンの設備があります。
本堂は公開されていて信徒でなくてもお参りできますし、別棟に、カフェと書店を併設したインフォメーションセンターという施設もあります。
あくまで信仰の場であって観光名所と言うと語弊が出ますが、東京散策の途中に立ち寄れば色々とインスピレーションが得られるかもしれません。
本願寺にお参りして出てきました。
ところで、先にも書いたように「忠臣蔵の舞台を巡る」が今回の東京旅に課したテーマのひとつなんですね。
忠臣蔵と言うと、仇討ちの発端になった赤穂藩主、浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)の屋敷跡が築地にあるんです。
この築地川公園の暁橋付近が目印です。
東側の道路向かいを見てください。
築地川公園の道路向かいにある、聖路加国際大学の建物の壁際に「浅野内匠頭邸跡」の石碑が立っています。
この辺りから聖路加病院の敷地を含んで隅田川の川岸にかけて、もともとは赤穂藩主浅野家江戸屋敷の敷地だったそうです。
問題の人物、浅野内匠頭長矩もここで生まれました。
内匠頭は、朝廷から江戸に下向してくる使者をもてなす饗応役に任じられます。
この饗応役としての先輩で、儀礼の指南役であったのが吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなか)でした。
内匠頭は上野介に何らかの理由で遺恨を持ち、饗応の期間の最中に、江戸城本丸の「松の廊下」にて上野介相手の刃傷沙汰に及びます。
その辺りの経緯、凶行の動機については今も謎が多いのです。
結果として赤穂藩主浅野家は改易処分を受けました。
築地にあった浅野家の江戸屋敷は領地と共に没収されてしまいます。
その後は「忠臣蔵」の物語として知られる一連の事件に繋がっていくわけですね。
時が下って文明開化、明治時代になると、浅野家の屋敷があった一帯はなんと牧場になっていたそうです。
この場所でその牧場の経営者の子として、後の小説家、芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)が生まれています。
もっと言えば、界隈の聖路加病院にも助産院がありますから、浅野内匠頭と芥川龍之介と同じ場所で生まれた子供たちが大勢いるということですね。
自分の生まれた病院の先輩にどんな有名人がいるのか?なんてあんまり意識しないし知りたくても知りようもないことがほとんどですけれど、聖路加病院で生まれた人の場合は少なくとも二人は明白なんですよね。
それが嬉しいかどうかは、その人の感性によるかと思いますが。
私だったら、ちょっと嬉しいかもしれません。
ちょっとだけです。
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