『瞬殺猿姫(49) 止める猿姫。三郎は佐脇を問い詰める』
では行って参る、と二人は茶店から出て行こうとする。
「三郎殿、どこへ?」
猿姫(さるひめ)は慌てて縁台から立ち上がりかけて、背中の痛みに耐えかねて再び後ろに尻餅をついた。
蜂須賀阿波守(はちすかあわのかみ)が駆け寄って彼女の肩を押さえる。
「じっとしておれ」
「しかし三郎殿が」
「猿姫殿、拙者のことはご心配いりませぬ」
苦しげに見る猿姫に笑顔を返して、織田三郎信長(おださぶろうのぶなが)は屋外へ去った。
後から佐脇与五郎(さわきよごろう)も猿姫たちに会釈ひとつ残し、三郎を追う。
「髭、お前」
猿姫は背中をかばいながら暴れようとする。
「動くなと言うのに」
「三郎殿が行ってしまったじゃないか」
髭面を見上げて訴えた。
「お前が行かせたのか」
「ああ、そうだ」
「もし彼に何かあったら、貴様どうしてくれる」
深手を負い、弱々しい声にも怒気がにじんでいる。
立ったままの阿波守は平然と彼女を見返した。
「佐脇与五郎がついている」
「しかしあの佐脇殿は」
まだ信用できない、と言いかけて猿姫は口をつぐんだ。
その信用できない男を三郎たちに引き合わせたのは自分だ。
以前、神戸下総守利盛(かんべしもうさのかみとしもり)に会ったときに、彼から佐脇は信頼できる家臣だと紹介されている。
神戸下総守の言を真に受けて、佐脇のことを受け入れてしまっていた。
茶店での待ち合わせが刺客に漏れていたことを考えると、神戸下総守の家臣であっても信頼に足るかどうか。
改めて吟味する必要があった。
その吟味の前に佐脇と三郎を二人きりにするのは危うい。
だがそれを、猿姫は佐脇を連れてきた手前、阿波守に対して言い出しにくいのだった。
「何というか…」
「お主の言いたいことはわかる」
と、阿波守は物分りよく応じた。
気安く、猿姫のすぐ隣に腰掛けた。
「佐脇の去就に万が一のことがあっては、と言うのだろう」
「そうだ」
「例え佐脇が翻意を示してもだ。織田の倅もここ半年で随分鍛えられた」
猿姫は阿波守の横顔を見た。
「いつまでもお主に守られているばかりの軟弱な貴人ではないぞ」
「そうか」
自信を持って言う阿波守に、猿姫は口をつぐんだ。
大人の阿波守が認めるほど、三郎は頼もしい男になったのか。
確かに、以前よりも男ぶりが上がっている。
それは猿姫も認めるところであった。
「だいたい、ここで懸想した女のために助けのひとつ得られない男なら、お主が守る価値も無いとは思わんか?」
この阿波守にしたところで今まで口にしたことのない、あけすけな言い方だった。
猿姫は息を飲んだ。
「この懸想した女というのが、お主のことだ」
「わざわざ言わなくていい」
言い返しながら、猿姫の頬に血が昇った。
共に足早に歩きながら、三郎は佐脇から意識を逸らさないようにしている。
「この辺りは神戸家与力の稲生殿の所領です」
佐脇は歩きながら説明した。
「その稲生殿というのは信頼できるお方でござるか」
「まず去就に疑いありません」
その稲生という武家の所領でなら、後腐れなく農家からの協力が得られると佐脇は言う。
茶店の先の分かれ道から伊勢街道の脇道に入り、しばらく進んだ先にある農家で、二人は荷車を借りた。
交渉にあたった佐脇と農家のやり取りを、三郎は油断なく見ている。
不審な点は無かった。
空の荷車を押していく佐脇を、後ろから監視しながら三郎が続く。
細く引き締まった体躯の佐脇は、闊達な歩調で荷車を押して進んで行く。
その背中を見ながら、三郎は歩いた。
「後ろを歩いて失礼」
後ろから声をかけて断った。
断ったが、荷車の車輪が砂利道を行く音で、前を歩く佐脇には聞こえなかったかもしれない。
「その方がお互い無事でしょう」
前から佐脇のよく通る声。
三郎の声は届いていた。
それにしても前と後ろで歩いていて、話がしにくい。
「茶店に戻って、その後はどうします」
三郎は話題を変えた。
「猿姫殿を荷車に乗せて、急ぎ海へ出ましょう。そこで船を借ります」
「船を貸す漁師の当ては」
「先ほど申した通り、ここいらは神戸家与力の稲生氏の所領です。心配には及びません」
「安心しました。ただ少々物事がうまく運びすぎるようでもありますが」
前を行く佐脇は返答しなかった。
「…佐脇殿?」
「失敬、道が悪いので車を押すにも神経を使いますもので」
「これは」
しかし砂利道とは言え、さほど荒れた路面でもない。
茶店の近くまで戻ってきた。
「佐脇殿」
「は」
佐脇は背中を見せて、歩きながら声を返す。
「止まってくだされ」
「どうかなさいましたか」
佐脇は立ち止まり、体ごと振り返った。
編み笠の下の顔は、すがすがしい。
額にわずかに汗していた。
「茶店に戻る前に、ひとつ確かめておきたいことがござる」
「何です」
「刺客のことについて、佐脇殿のお考えを伺いたい」
「刺客の吟味は私がいたしましたが、あやつらは何一つ漏らしません。先にも申しましたが、おそらくは織田殿のお国許の尾張か、もしくは近江の六角家の差し金で…」
「送り手のことは今はようござる」
「と仰いますと」
佐脇は無表情で見返している。
「どこから漏れたのでしょうな」
三郎は、努めて冷静に問いかけた。
「それは・・・」
「我らがあの茶店で落ち合うことを、です。拙者と猿姫殿は、神戸家に繋がる人づてを通して文のやり取りをしておりました」
「そうですな」
「であれば、どこから刺客の送り手に茶店でのことが漏れたのか。それを拙者は気にしてござる」
佐脇の双眸を覗き込みながら、三郎はゆっくりと言った。
佐脇は見返している。
揺るがないその双眸に、三郎は飲み込まれる思いがした。
「それは、今はわかりかねます。誠に申し訳なく思いますが」
佐脇は言った。
「誠でありますか」
「私をお疑いなのは承知しております」
「失礼ながら。まだ貴殿のこともよく存じ上げないので」
率直に答えながら、それでも少しずつ自分にも処世がわかってきている、と三郎は自覚していた。
「率直ですね。しかし先に申した通り我が主、神戸下総守も私も、こたびの刺客に関与してはおりません。事前にことが漏れた失態を詫びるばかりです」
そう言って、荷車を脇に、佐脇は腰を折って頭を下げた。
三郎は、用心深く見守った。
佐脇は再び直立する。
「いずれまた機会を設けて詫びさせていただきます」
「いや、これよりのお詫びは不要でござる。貴殿のお気持ちはわかり申した。ただ…」
佐脇は怪訝そうに眉を寄せた。
三郎が、右手を前に突き出して、佐脇の方に進み出たのだ。
「握手いたしましょう」
「握手…」
「南蛮由来の、親愛を深める作法でござる」
「それはまた…」
相手の虚を突かれた様子に嘘はない。
「佐脇殿も右手をお出しくだされ」
言われるままに佐脇が出した右手を、三郎は握った。
荷車を押していた佐脇の手の平が、湿り気なく滑らかだった。
三郎は何とはなしに相手に好感を持った。