うるま市の勝連城跡を見学していきます。
城跡から道路を挟んだ専用駐車場の横に、観光案内所の建物もあります。
「うるま市特産品の店うるまーる」併設で、土地のお土産類もありました。
勝連城のミニチュア、城跡からの出土品の展示もあったので、お城跡見学に合わせて立ち寄りたい場所ですね。
さて、勝連城跡です。
世界遺産だったのですね。
遊歩道が綺麗に整備されてていいですね。
スマホで、600年前の勝連城が体験できるらしいです。
試してみましたが、いまいちよくわかりませんでした。
実際のカメラ映像を使ったARとかだったら臨場感もう少しあったのでしょうけれど。
天気が良くて、観光気分が高まります。
勝連城跡。
15世紀の阿麻和利(あまわり)という人物の城だったそうです。
農民の子に生まれた阿麻和利は、元の勝連城主を攻めて自分が城主になりました。
本土で言う下克上の武将のような存在だったのでしょう。
阿麻和利が城主になってから勝連は繁栄したということなので、領主としての手腕にも優れていたようです。
後に阿麻和利は琉球王朝の尚氏と対立し、滅亡してしまうのでした。
石積みの城壁がきっちり残っていて美しいです。
井戸のような場所があります。
「ウタミシガー(お試しの泉)」です。
年の始めに、この泉の水の量の多寡で吉凶を測る神事が行われたということです。
こちらにも泉があります。
こちらは「ミートゥガー(縁結びの泉)」です。
この泉がかつて男女の逢瀬の場であった伝説からそう呼ばれていたそうです。
一方で、ここで結ばれた男女のどちらかに不幸なことが起こるという不吉な言い伝えもありました。
城主阿麻和利の夫人、百度踏揚(ももとふみあがり)は琉球王朝の尚氏の娘でありました。
実家の尚氏に婚家を滅ぼされ、その後に再嫁した新しい夫の家も、再び実家によって攻め滅ぼされています。
ミートゥガーの言い伝えは、この百度踏揚の人生を背景にしているように思われました。
三の曲輪に上がってきました。
儀式が行われたと考えられる広場で、建物跡の礎石も見つかっています。
曲輪の入口にあたる南門付近の城壁際の土中から、埋葬された幼児の骨が発掘されているそうです。
なぜここに子供が埋葬されたのかはわかっていないそうです。
私は呪術的な意味合いを疑いました。
この木の辺りが「肝高の御嶽(トゥヌムトゥ)」という拝所で、神人と呼ばれる女性祭司によって儀式が行われた場所でした。
儀式の際に神人の人たちが腰掛けた石の列も残っています。
二の曲輪は石積みの基盤が立派でした。
二の曲輪に上がります。
二の曲輪もなかなかに広いんですね。
舎殿の礎石が残っています。
城壁にもたれかかって、北の観光案内所方面を眺めました。
海の向こうに見える左側の島は平安座島とその北側に接する宮城島です。
右手の島は浜比嘉島で、こちらも平安座島から海中道路で渡れます。
本土の山城跡で、こんな綺麗に整った曲輪を見たことがないです。
琉球の石の城は、造りが緻密で美しいですね。
一の曲輪の下には樹木が生い茂っていて、その中に小さな洞穴があります。
かつて阿麻和利が落城した際、この洞穴から城外に脱出したという抜け穴伝説が伝わっています。
一の曲輪に登る階段、城壁の外側を通っていて、安全柵も無いので怖かったです。
海から来る風が結構強いし、上から降りてくる他の観光客の人とすれ違うために外側を歩かないといけなくて、ちょっと心臓をつかまれるような思いをしました。
一の曲輪は石灰岩がそのまま埋まっているような地面で、足場が不安定でした。
一の曲輪にも御嶽があり、阿麻和利の時代にはここに聖殿が建てられていたということです。
ここの土台になっている大きな石灰岩自体が、かつては聖なる石として信仰の対象だったのでした。
一の曲輪からは全方位に見通しが利くのですが、やはり観光案内所の先、海中道路の方向を見てしまいます。
できたらあの海中道路を歩いて渡ってみたかったのですが、それをすると日が暮れてしまいそうなので、今回は止めておきます。
こちらは南西の海です。
海の向こうに見える陸地に、中城城跡があるはずなのです。
中城城跡は、阿麻和利の競争相手だった護佐丸(ごさまる)の本拠地、中城城の跡です。
中城城は尚氏と結んだ阿麻和利の侵攻によって滅ぼされるのですが、後に阿麻和利も尚氏に滅ぼされるのは先述した通りです。
そしてこの護佐丸は、阿麻和利夫人の百度踏揚にとって母方の祖父でもありました。
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