『転生したら森の中、反省』
研二(けんじ)は、こっちが青だろが、と抗議のつもりでドライバーの顔を見た。
だが相手が悪かった。
フロントガラス越しに見えた。
人相の悪い中年の男。
眉間と口元を歪めて、邪魔だ、と威嚇している。
ひき逃げ上等の価値観なのだ。
研二は、目を見開いた。
足がアスファルトの地面に根を張って、動けない。
一瞬、脳裏に両親の顔が浮かんだ。
猛スピードの車体に、研二の体は大きく跳ね飛ばされた。
うっすら目を開けると、曇り空が見えた。
高い木々が空を囲っている。
体の下が柔らかい。
研二は、森の中に大の字になって寝ていた。
ゆっくりと上体を起こした。
体に痛みは全く無い。
五体に目をやったが、骨折どころか擦り傷すらなさそうだった。
妙なのは、自分の衣服が変わっている。
自分のものではない、色褪せた、繊維の荒いシャツとベスト、ズボン。
身じろぎすると肌に抵抗するようにごわごわと強張った。
これは現代の衣服ではない。
麻で編まれている。
毛糸の靴下の上から、動物の革でできた靴を履いている。
どうしてこんな格好なのだ、と研二は自問した。
思い当たるのは、異世界転生しかない。
さっき、信号無視の車にひき逃げされたのだ。
おそらく元の世界では死んでしまい、魂だけが異世界に生まれ変わった。
「あのドライバー、むっかつく」
口に出しながら、研二は立ち上がった。
やはり体には重傷も軽傷もなく、気持ちいいぐらい身軽だった。
落ち葉の堆積した平坦な場所で、頭上に空が開けている。
しかし周囲は、どの方角も密な樹木と低木に囲まれていた。
どこに行っていいのかわからない。
なんだか面倒な場所に異世界転生してしまった、と研二は思った。
そのときふいに、研二は嫌な感覚を覚えた。
周囲の森から、複数の気配を感じる。
研二が立ち上がったのを見て、身構えた。
そんな気配だった。
四方でそんな気配が沸き上がった。
気絶している間から囲まれていたのか、と研二は思った。
弓の弦を引き搾る耳障りな音。
これも四方から聞こえた。
研二は、身を隠すもののない平地に突っ立っている。
彼の体を撫でるように、周囲で旋風が立ち昇った。
転生した体から、過去の記憶が意識の中に流れ込んできた。
望まぬというに、面倒な場所に転生したものよ。
研二は自嘲した。
矢が飛んできた。
二本、三本、四本。
肌一寸の場所で矢をかわしながら、研二は飛んできた矢の数を数えている。
森の中では、矢を放つなり射ち手たちが次の矢を弓にたがえ、再び弦を引き絞る。
彼奴らの矢が尽きるのを待つに及ばぬ。
研二は重心を落とし、腰から下に力を込めた。
両脚に風の力が蓄えられていく。
矢の第二陣が始まった瞬間を狙った。
顔を上げて頭上の空を見ながら、真上に体を発射した。
研二の体は大きく弾んで、森の樹木の上限を飛び越えた。
空の上まで体が登り切ったとき、太陽を背にして、研二は足下の下界を見下ろした。
四方に、見渡す限りの森が広がっている。
ただ一方の果てに、森が開けて、建物が並んでいる場所が見える。
集落のようだ。
王と話をつける時が来たのだ、と研二は一人うなずいた。
我がこの世界に転生したのも、そのために相違あるまい。
重力に従って下降を始める体を、研二は集落のある方角に向けた。
森の中ほどに、研二は落ちていった。
はるか背後の樹下では、追手たちが走って彼を追っている。
しかし、高い頭上の枝から枝へ、身軽に飛び伝って進む研二に追いつくことはできなかった。
時折、走りながら矢を放つ猛者もいないではなかったが、狙いが定まらずでは矢は研二の体に届きもしなかった。
研二は、一本の樹木の上で、枝の根本で足を支えたまま体を止めた。
目の前で木々が絶え、森が開けている。
集落は木の柵で囲まれ、その入り口には木戸が立てられていた。
木戸の左右に槍を構えた門番が二人。
二人は研二と同じ衣服を着ている。
集落を囲む木の柵にも、一定の感覚で櫓が設けられている。
それらの櫓は森の樹木よりも高く、上には槍と弓矢を備えた櫓番が柵外の監視にあたっている。
門番と櫓番に気付かれずに、集落内に入り込むのは難しい。
研二は、目をつぶって、息を整えた。
足の下で、枝が研二の体重に音を上げて、しなり始めている。
背後から、徐々に追手たちの気配も迫っていた。
両手を頭上に掲げて現れた研二を、門番たちは緊張した面持ちで迎えた。
だが彼らも、研二がおとなしくしている以上、集落内に迎え入れないわけにはいかない。
号令がかけられ、内側から木戸が開けられた。
門番の一人に中へ送り込まれ、研二は集落内の警備兵に引き渡された。
「お父上に取り計らいましょう」
警備兵の一人が耳打ちした。
父の助けを借りるなど、これまでであれば一笑に付し、拒絶していたところだ。
だが転生してきた研二は、そうはしなかった。
「頼む」
警備兵に頭を下げていた。
後ろ手に縄をかけられた研二は、集落の中ほどにある御殿の広間に引き出された。
先の王である、父、アンニン公の隠居所であった。
燈明が焚かれた室内の奥に、アンニン公の座所がある。
年老いた公は、褥の上で姿勢を崩し、咎めるように研二を見ていた。
研二は木の床の上に両膝を付いて、父の顔を認め、それから一礼した。
「なぜ帰ってきたのだ、ケンニン王子よ」
「アンニン公」
研二は公の言葉を受けた。
かつてケンニン王子は、アンニン公の後継者だった。
しかし父王と折り合いの悪かった王子は、王位を自ら放棄し、森の中に逃げ込んだ。
やむを得ず新しい王とされたのは、ケンニン王子の従弟にあたる、モクネンである。
アンニン公とモクネン王に反抗するケンニン王子は、度々集落を襲撃しては、物資を奪って森の民と共に放蕩生活を送った。
業を煮やしたモクネン王は追手を放ち、森にいるケンニン王子の抹殺を図った。
研二がケンニン王子の体に転生したのはその折だ。
「このまま帰ってこなければ、命は拾えたものを」
アンニン公の声は、暗く沈んでいた。
「命を捨てる気はありません」
研二は小さな声で、しっかりと言った。
「では、なぜ」
「ただ一言、父上に許しを乞いに戻って参りました」
研二はアンニン公の顔を見据えた。
先王は見返している。
その双眸が、わずかに震えたように見えた。
「許そう」
確かにそう聞こえた。
嬉しくなって、父に笑いかけた時、ふっと研二の意識が薄らいだ。
また横になっている。
目を開くと、妙な光景だった。
白い天上の下に何本かの細いパイプが通っていて、引っ張り上げられた研二の右腕が、バンドで繋がっている。
右腕はギプスに覆われていた。
ベッドの上に横たわっているのだ。
病院か。
そう意識して何気なく身じろぎした瞬間、体の各所に激痛が走った。
「いてえっ」
傍らで、慌てふためく気配。
仕切りのカーテンを開けて、覗き込んだのは母親だ。
「研ちゃん、目が覚めたの。あんた、二週間も」
泣いている。
自分はしばらく昏睡状態になっていたのだ、と研二は自覚した。
二週間ぐらいでは、まだ体が痛い。
あれだけのひき逃げだった。
泣く母親の顔を見ながら、研二は異世界で出会ったアンニン公のことを思い出していた。
「親父、いるかね」
「いるよ、そこにいるよ」
病室の、ベッドの傍らに父母揃っていたらしい。
「お父さん、私先生呼んでくるから、研二のことを」
そう叫んで、母は出ていった。
病室がざわめく雰囲気。
しきりのカーテンで見えないが、何人かの相部屋らしい。
母が去った後、しばらくして、父がそこに立った。
研二を見ながら、目を合わせない。
「親父」
研二は呼びかけた。
アンニン公と似た表情をした父は、口元を結んだままでいる。
「ごめんよ」
研二は謝罪した。
信号無視の軽ワゴン車にはね飛ばされる直前、進路を巡って父と口論になったあげく、家の金を持ち出して家出してきたところだった。
持ち出した金は、いずれ返すつもりだった。
「盗んだ金な、あれ、俺ちゃんと持ったままだったかな?」
舌がうまく回らない。
「馬鹿たれ」
父が、短く言った。
「金なんかより、命の方が大事じゃろうが」
語尾が震えている。
異世界から、帰ってこれてよかった、と研二は思った。
安堵の息をついた。
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