『転生したら堕天使だった、私にはお似合い(前編)』

毎朝乗る通学電車の中。

白美(しろみ)はロングシートの端に座っている。

座席は全て乗客で埋まり、通路と入り口付近に立つ人も多かった。

白美の自宅から最寄りの駅はこの路線の始発駅にあたるので、彼女は毎朝座席に着くことができた。

始発駅近辺の新興住宅地に、苦労してマイホームを購入した両親、白美は感謝してもし足りない気持ちでいる。

在学している高校の最寄り駅まで、四駅。

早寝早起きで十分な睡眠を摂っている白美も、今日一日の活動に備えて、目を閉じて心を鎮め電車の揺れに身を任せている。

途中の停車駅で、乗客たちが乗り込んでくる気配があった。

間近に気配を感じ、白美はうっすらと目を開いた。

自分の前に、高齢の女性が立っていた。

ロングシートの支柱を右手でつかみ、左手には杖を持って床に突いている。

あっ、と白美は思った。

反射的に腰を浮かせていた。

「あの、こちらに」

高齢の女性を、自分が座っていたスペースに誘導した。

「いいんだから、達者なんだから、ほっといて頂戴」

女性は、くぐもった声で言って、左手を振って白美の申し出を拒絶する。

その拍子に杖が白美の脚を打った。

少し痛かった。

白美は痛みをこらえて、失礼しました、と素直に従った。

しかし一度立ってしまった以上、また同じ席に座りにくい。

高齢女性は白美を避けて、乗降口の前に移動している。

白美は、視線を移動させて、近くに立っていた別の中年の女性を見た。

目が合ったので、それとなく会釈する。

彼女がこちらに来たので、席を譲って白美は隣の車両に移った。

その間、先の高齢女性がこちらを見ているのに白美は気付いていた。

親切の押しつけのような真似をしてしまい、申し訳ない気持ちで、白美は女性の視線から隠れたかった。

 

午前中の授業が終わり、校舎と別棟にある食堂に白美は来ている。

いつも通り、友人の赤美(せきみ)と一緒だ。

赤美は高校の所在地と同じ町に自宅があるので、歩いて通学している人だった。

「ねえ、それスパムのほうれん草巻きでしょ、美味しそうね、おくれよ」

赤美は、白美のお弁当のおかずを何かと欲しがった。

本人いわく、自宅から学校まで結構な距離を歩くので、肉体が栄養分を欲している、とのことだ。

彼女の理屈にも一理ある、と白美は認めていた。

「いいよ、どうぞ」

赤美は白美のスパムのほうれん草巻きを一塊、箸でつまんで取った。

「うまいじゃん。あんたこれ、自分でつくったの?」

赤美は咀嚼しながら喋って、スパム片を口からこぼした。

「うん、私、朝、暇だからね」

「おやじもおふくろも働いてんだっけ。いくら仕事忙しいったって、子供に自分で弁当つくらせる親とか、あり得る?特におふくろさあ。うちのババアだってこの通り、貧相なりの弁当はつくってくれてんだよ」

赤美は高い声で、まくしたてた。

「あんたもさあ、何でもおとなしく言うこと聞いてないで、一度おふくろに抗議ぐらいしたらどうなの?」

彼女は自分に同情してくれているのだと白美は思う。

「自分でつくるって、いつもじゃないの、今朝はお母さん忙しかったから」

白美は嘘をついた。

とっさに母をかばったつもりだった。

でも、後からうしろめたさを感じた。

すぐに思い当たった。

母にやましいことがある、と無意識に考えていなければ、赤美に対して取り繕うことはない。

自分は無意識に、母の落ち度を認めたのだ。

だいたい、お弁当をつくるのが両親のうち父ではなく母であるべきだという決めつけからして、時代遅れな偏見に過ぎる。

自分は偏見まみれの汚れた心で、母を断罪してしまった。

自分の心の醜さを恥じて、白美は赤美から顔を背けて涙をこぼした。

 

 

今日は朝からこんな醜態をさらし続けたのだから、堕天使に転生しても当然だ、と白美は納得するところがあった。

自分なりに、疲れが溜まっていたのかもしれない。

帰宅途中の夕方の電車内で、座席に座れず通路に立っていた白美は、立ち眩みを起こしてしまった。

意識が遠のいて、目覚めたら、見慣れない場所にいた。

周囲は炎と溶岩に包まれている。

遠目には、煙と溶岩を吹く火山が、世界の果てまで連なっている。

赤く焼けた空の端々に煙が立ち昇り色濃く渦巻いていた。

地獄の風景である。

白美が座っている場所は、ごつごつとした岩の上だった。

白美は居住まいを正した。

お尻と足が岩肌に当たって痛い。

と、自分の体を見て驚いた。

胸から肩、腕、腰、足先まで、すべすべした光沢のある黒色の、皮膚なのかタイツなのかうぶ毛なのか曖昧なものに覆われている。

裸のような裸でないような、曖昧な姿だ。

顔を触ってみても、同じようなすべすべの手触りだった。

そこから額まで手を伸ばすと、額の上辺りから、二本の小さな角が生えているのがわかった。

腰とお尻の間辺りがむずむずすると思ったら、黒い尻尾が生えていた。

先が二股の槍先のような形状になっている。

背中もむずむずする。

背中からは、蝙蝠のそれを大きくしたような、膜を持つ一対の黒い翼が生えていた。

黒一色である。

とうとう自分にふさわしい姿になってしまった、と白美は思った。

堕天使なのだ。

気付けば、自分と同じような姿の無数の者たちが、地獄のそこかしこを飛び回っているのが見えた。

『お前は、堕天使の一柱として転生した自覚はあろうな』

大きな、威厳のある声が頭の中に響いた。

誰なのかわからないが、その姿は周囲のどこにも見えない。

はい、と白美は頭の中で返事する。

『我々堕天使は、元は天界の主軸を成す高貴な生まれだった。それ故、本来はお前のような者が堕天使となるにふさわしい』

声だけのその人は、堕天使を高貴な生まれだという。

先ほど、今の姿を自分にふさわしいと思い込んだ自分は、傲慢だったと思い直した。

胸が締め付けられるような気持ちになる。

頭の中で、豪快な笑い声が響いた。

『そのような心持ちの娘が堕天使としてどう生きるか、これは見ものだ』

「どう生きていけるんでしょう……」

『人々を堕落させるのが堕天使の生業である。取り繕わず、欲望に生きるのが人本来の姿。お前はこれから人間界に登って、人々が思いのままに生きられるよう、堕落させて来い』

「わかりました」

堕天使の偉い人から、自分にも生きる目標が与えられた。

精一杯頑張ろう、と白美は意気込んだ。

 

 

翼をはためかせて、地獄の真っ赤に焼けた空を昇っていくと、厚い空気の層を突き破ったような感覚があった。

人間界に現れていた。

白美の地元ではない、彼女が来たことのない大都会の街角だ。

翼をたたみ、アスファルトの歩道に立った。

この恥ずかしい堕天使ルックを人に見られたらどうしよう、と思うと脚がすくむ。

しかしそうするうちにも通行人は行き来し、白美の方を見たり見なかったりしながら通り過ぎていく。

『我は堕天使に、人間界に溶け込める特性を与えている』

例の威厳のある声が、頭の中に響いた。

『外見を見とがめられることはない。人間の頃のように、見知らぬ人間に話しかけても無碍にされることもない。気兼ねせずに篭絡に励むのだ』

「わかりました」

『ところで、天使だけには気を付けよ。連中は我らの天敵であり、妨害を加えてくるからな』

気になることを言われたので聞き耳を立てたが、声は途絶えてしまった。

白美は気を取り直して、人間に働きかけてみることにした。

 

 

要は、悪いことをしようかしまいか葛藤している人の、背中を押してあげればいいのだろう。

白美はそう結論付けた。

考えるだけで、どきどきする。

そそのかして、悪事の手助け。

自分にそんなことができるのだろうか。

 

 

街角を行く人たちをそれとなく観察していると、全身のうぶ毛がかすかにざわめいた。

白美の堕天使レーダーが、獲物に反応している。

白美は意識の焦点を合わせた。

後悔、懺悔、慟哭、哀惜。

そんな漢字で形作られた感情が、白美の脳裏に流れ込んでくる。

白美は身を強張らせた。

苦痛、懇願、解放、自由。

なんだこれは。

苦しみに身をよじるような人間の生の感情に触れ、緊張で白美の胸は動悸を打った。

浄土、彼岸、河原、虚無。

どこにいるのだろう。

早く助けなければ。

感情が流れてくる、その源流を全身の肌感覚で辿った。

白美は背後を振り返った。

ひっきりなしに自動車が行き交う四車線の幹線道路が傍らを通っている。

その道路の向こう側の端に、ぼんやりと立っている人影を白美は認めた。

アスファルトから立ち昇る熱気の中で、その細い人影は消え入りそうだ。

その人影が車道に向かって、ゆらり、と倒れ込むように歩を進めた。

「やめて」

白美は叫んだ。

脚が歩道を蹴った。

両翼と尻尾が、排気ガス混じりの空気をかき分けて、はためいた。

白美は飛んだ。

走る運送会社の大型トラックとタンクローリーの合間を高速でかいくぐり、四車線の車道間を一筋の稲妻になって渡った。

空中に身を投げたその女性の体を抱き止めて、一緒に歩道側に倒れ込んでいた。

付近の通行人たちが、驚いて後ずさった。

女性が車道に身を投げたことにも、誰も気付いていなかったらしい。

「大丈夫?」

座り込んだ白美の膝の上に女性は頭を乗せて、力なく横たわっている。

開いた目からは、涙がこぼれていた。

彼女から白美への感情の流入は、止まっている。

ひとまず彼女を落ち着かせよう、と白美は思った。

ひとしきり泣かせた後、女性を立たせて、近辺に見つけた喫茶店に連れて行った。

高校生の白美は今まで喫茶店に入ったこともないが、体が自然に動いていた。

 

 

テーブル席で向いあって、改めて女性を観察した。

白美よりもひとまわり年上だが、中年というほどではない。

大人の女性だ。

顔色が青白く、やつれていた。

長い髪は艶を失っている。

困っているのは明らかだった。

本気で死のうとしたからには、大人の事情があるに違いない。

大人の事情は理解できないが、自分にできることなら、助けになろうと白美は思った。

「天使じゃなくて、堕天使で申し訳ないですけれど、私で助けになれるなら」

白美は控えめに申し出た。

「お話を聞くことはできます」

「堕天使って、悪魔のことですよね?」

女性が早口に口を挟んだ。

思ったよりも力強い声だ。

「ええと、そうです」

「悪魔だったら、死なせてくれればよかったのに。そのまま地獄に行くつもりだから」

女性は言った。

そのあとで、口元に歪んだ笑みを浮かべている。

白美は息を呑んだ。

「よかったら、事情を聞かせてもらえませんか」

白美の申し出に、女性はしばし無言だった。

悩んでいる。

白美は待った。

女性は間を置いて、訥々と語り始めた。

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