2020年2月姫路旅行一日目(1)。姫路の妻鹿は黒田家所縁の地。妻鹿城跡、黒田職隆廟所
2020年2月、コロナ禍の比較的マシになった頃合いで近場の旅に出てきました。
姫路は大阪からごく近いながら瀬戸内の旅情をそこはかとなく感じられる土地で、便利で魅力的なんですよね。
朝のJR姫路駅周辺です。
あいにくの雨でした。
山陽姫路駅から、南に行く予定です。
列車に乗りました。
車窓の風景を撮ろうとスマホを構えていたら、妙なものを見つけてシャッターを切ったんですね。
かつては高架があったらしい、そのコンクリートの柱だけが残っていて、街中に並んでいるんです。
調べたら、モノレールの路線跡らしいです。
後ほど、街中散策の時間に近くで見てみたいですね。
姫路の市街地の南西、市川を越えた先の妻鹿(めが)駅で降りました。
この妻鹿の辺りは、戦国大名の黒田官兵衛孝高(くろだ かんべえ よしたか)に所縁のある土地だということなんですね。
姫路に来て観光というとだいたい姫路城中心になって、こういう郊外に来る機会がなかなかありませんよね。
今回はマニアック路線で行くことにしました。
市川沿いの北に向かって歩いています。
先に見える緑の山の盛り上がりが、目的地の妻鹿城跡(国府城跡)です。
妻鹿城は鎌倉時代末期に、妻鹿氏によって築城された城だそうです。
後の戦国時代に、黒田官兵衛の手で改修されました。
当初、黒田官兵衛は播磨の有力武家、小寺政職(こでら まさもと)に仕えています。
官兵衛は、中央から播磨に勢力を伸ばしてきた織田家に恭順することを主君小寺氏に説き、自らの居城、姫路城を織田家臣の羽柴秀吉に提供します。
そして自分は姫路城から、この妻鹿城に移り住んだのです。
瀬戸内海から市川を通して、北の姫路城まで水路で繋がる妻鹿城は、姫路城防衛の南の要と言える拠点です。
そこを官兵衛は率先して守った訳ですね。
黒田官兵衛も住んだ妻鹿城、その城跡に登って絶景を拝もうと思ったのですが、道がぬかるんでいて滑りそうなので登城を断念しました。
妻鹿城跡の城下町といいますか、周辺が住宅地になっているんですね。
この住宅地の中にも黒田官兵衛にまつわる史跡が点在します。
「黒田職隆(くろだ もとたか)公廟所」です。
職隆は小寺家中での功績により、主君の小寺政職から一族揃って小寺姓を賜っています。
ですから官兵衛父子も一時期、小寺職隆、小寺官兵衛と名乗っていたことがあるわけです。
廟所にお参りしました。
黒田職隆の墓所は、江戸時代の中頃に姫路の僧侶により発見されています。
その僧侶が当時の福岡藩主黒田家に墓所について報告した結果、墓は黒田家によって廟所として整備されることになりました。
福岡藩の初代藩主は黒田官兵衛の嫡男の黒田長政(くろだ ながまさ)。
そして黒田職隆はその初代藩主の祖父にあたる人物。
逆に言うと、江戸時代の中頃になるまでその墓所の存在を黒田家が把握していなかったのか?というのが引っかかるところではありますが。
ただ黒田家が播磨から筑前福岡の大名に出世する慌ただしい過程で、先祖所縁の場所についての記憶が薄れてしまったのかと。
そのように想像することはできます。
妻鹿城跡付近から妻鹿駅まで戻りました。
観光案内版を再度確認した結果、大きな史跡を見逃してきたことに気付きました。
黒田職隆公廟所の近くに、「母里太兵衛生誕記念碑」があったらしいのです。
母里太兵衛友信(もり たへえ とものぶ)は黒田家配下の名将として、後藤又兵衛基次(ごとう またべえ もとつぐ)と並び著名です。
母里太兵衛は、酒席で福島正則(ふくしま まさのり)と大酒の飲み比べをして勝ち、正則が豊臣秀吉から拝領した日本号なる名槍を勝ち取りました。
この逸話が「黒田節」という歌を通して、広く巷に広まったのです。
妻鹿はこの母里太兵衛の生誕地でもあり、現地に記念碑が整備されていたのですね。
私は先に案内版をよく確認しておらず、この重要な史跡を見逃してしまいました。
今からまた現地まで歩いて戻るのもつらいので、今回は見学をあきらめます。
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