2022年4月埼玉旅行一日目(6)。東松山駅から市野川流域へ。上田氏の居城、吉見の松山城跡

冷汁うどんで体力がついたので、午後からも埼玉観光を楽しんで参ります。

時計塔がお洒落な、東松山駅東口の南側ロータリーです。

面白いと思ったんですが、東松山駅東口は、張り出した駅舎を挟んで北と南に二つのロータリーがあるんですよね。

これからまた東に向かって歩いて行きます。

最初から路線バスに乗ってもいいのですが、知らない街を歩くのはやっぱり楽しいので、出来る限りは歩いて行く所存です。

今回、東松山には東の果ての郊外にある「吉見百穴(よしみひゃっけつ)」という有名な古墳を見に来ています。

 

東松山の街は宅地開発が進んでおり、東松山駅の周辺は繁華街で、大通りを東に歩く間、沿道には街の風景が続きます。

これが市野川に近づくと田畑が多くなってきます。

市野川の流れです。

この東岸の際の山に、吉見百穴があります。

またこの吉見百穴の南隣には松山城跡という城跡もあります。

順次、観光して参ります。

市野川の東側を市境として、市野川と、その向こうの土地は比企郡吉見町になります。

東松山市は、東西を比企郡に属するいくつかの町に挟まれる形になっております。

東松山市の川向うにあるのが吉見町と川島町です。

まずは橋の向こうすぐの松山城跡から見学しようと思うのですが、なんだか怖いですね。

暗くて。

案内板によると、松山城は築城者については諸説あって定まらないようですが、室町時代に上田氏の居城だったことははっきりしています。

平山城と呼ばれる形態の城跡で、まあ峻険な山ではなく丘の上につくられた城、ぐらいのものですね。

 

上田氏は鎌倉時代に関東で活躍した武蔵七党と呼ばれる武士団のうちの、西党の末裔にあたる武家であったようです。

室町時代には上田氏は山内上杉氏、そして小田原北条氏に仕えました。

発祥は秩父地方の辺りなので、この吉見の地付きの土豪というわけではなかったんですね。

おそらくは山内上杉氏重臣として、比企郡の支配を任されたことから松山城に移った、というところでしょう。

そして、この上田氏の「どの大大名に付くか?」という判断により、その時々で松山城山内上杉氏方の城になったり、小田原北条氏方の城になったりしたというわけですね。

城の入り口の辺りに誰かが杖を置いてくれてあります。

コロナ禍で、共用のものをちょっと触りにくくて。

お気持ちだけいただきます。

木々に埋もれたようになっていますが、結構大規模な城跡のようです。

階段が設けてあります。

ここが本曲輪跡です。

つまり、本丸跡ですね。

城主の上田氏が小田原北条氏と共に滅亡した後は、松山城には徳川家康の家臣の松平家広(まつだいら いえひろ)が入城します。

松平家広が若くして病死すると、その異父弟の忠頼(ただより)が城主になります。

この忠頼が浜松藩主として浜松に転封されると、松山城は廃城されてしまいました。

 

ちなみにこの松平家広と忠頼の兄弟の家系は桜井松平氏といいます。

桜井松平氏は、徳川家康の祖父である松平清康(まつだいら きよやす)と争った清康の叔父の松平信定(まつだいら のぶさだ)の、子孫にあたります。

この桜井松平氏は清康子孫の松平宗家とは後の代まで仲が悪かったらしく、家広の父の忠正(ただまさ)も当初は徳川家康と戦っています。

清康と争った信定からすると忠正は曾孫にあたるので、かなり長い間対立を続けてきたわけです。

ところが後に忠正は徳川家康に仕えます。

家康からすると桜井松平氏は若干面倒な存在だったのでは?と思えなくもないですが。それでもなお松山城であるとか浜松城であるとか重要な城を任されているところを見ると、家臣になってからの忠正親子が宗家に対してよほど貢献し信頼を勝ち取ったのかもしれませんね。

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