紀行文の書き方
将来小説を書いて収入を得るのはかなり非現実的としても、文章を書く習慣があれば何か文章を書くことに関わる仕事なり副業なりに導かれるのでは。
そういう期待があって、旅行記事と別にこうやって小説執筆についてを主な題材に、思い付きを形にするだけの雑記記事も書き続けてみることにした。
旅の経験を連ねるだけの旅行記事も、思い付きを書くだけの雑記記事も、どちらもあまり構成がいらないのだ。
いや、旅行記事については構成を練って編集しないと紀行文には昇華されないのだとは思うが、「訪れた場所を余すことなく人に見せたい、訪れた史跡に関わる歴史的人物についても記したい」という思いが記事執筆の唯一の動機になっているので、「編集する」ということには苦痛を伴うのだった。
苦痛を伴う作業が付いて回る限り、執筆が進まない。
まだ記事にしていない旅のストックも複数あり、ひとまずは執筆を進めることが一番大事だ。
そういう言い訳は脇に置いても、苦痛は出来る限り無くしたい。
紀行文というと、自分が文庫本等で読んで来たものは文章が主体で、現地の写真等は章と章の間に少数が挿入される程度だったと思う。
つまり他の随筆と同じく、文章の力で読ませている。
翻って自分の旅行記事はというと、まず旅の現地で撮ってきた写真を時系列で並べて、そこにコメントを付記するように文章を書いていく。
写真が、主体になっている。
だから時には、写真を説明する文章が冗長になっていることもある。
写真を見ればわかることを自己満足的に書き連ねる、というような。
読む側にすれば「写真を見ればいいのか説明文を読めばいいのかどっちなんだ」と思うかもしれない。
また「他人の個人的な趣味に基づいた旅をだらだらと追体験させられる、付き合わされる」という感覚を味わうかもしれない。
紀行文ってそういうものじゃなくて、筆者と一緒に旅行を楽しむ臨場感が肝だろう。
行間ににじむ、筆者の人生観を垣間見たりしながら。
自分の旅行記事がそういう紀行文の娯楽になっているかどうか、確信が無い。
今の写真に説明を付けるスタイルだと、自分は自分の個人的な趣味に合った旅行を再体験しているようで凄く楽しいのだが、書いている人間だけの自己満足になっているのかもしれない。
願わくば、自分と全く同じ感性かつ同じ趣味を持った読者の目に記事が届きますように。
そんな思いで、現在の旅行記事スタイルを反省することもなく続けている。
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