2022年4月埼玉旅行二日目(2)。秩父鉄道で武川駅へ。荒川を渡り、畠山重忠公史跡公園を見学
熊谷駅から列車に乗って、次の目的地に旅します。
JRではなく、秩父鉄道を利用します。
熊谷駅、秩父鉄道のプラットホームです。
秩父鉄道では、今でも週末など特定のダイヤで蒸気機関車が運行されているそうです。
全席指定の事前予約制で乗車できるそうですよ。
各種お菓子の入った自販機です。
熊谷でつくっているらしい手作り玉ラムネも買えます。
美味しそうですが、甘いものを控えるようにしているので買いませんでした。
秩父地方で採水した秩父鉄道限定ミネラルウォーターを買いました。
パッケージの蒸気機関車は、かつて秩父鉄道で走っていた車両だということです。
武川駅にやって来ました。
深谷市の南部に位置する駅です。
武川駅は、渋沢栄一の出身地になる北部からはかなり離れています。
武川の近辺には鎌倉武士の畠山重忠(はたけやま しげただ)の墓所と居館跡があり、その場所を見学するために来ました。
私の出身の大阪府の南河内地方一帯は、室町時代、畠山重忠の子孫にあたる畠山氏が治めていました。
それで身近な畠山氏の、先祖である重忠の出身地を見たかったわけです。
武川駅は、秩父山脈から熊谷に向けてセメントの原料になる石灰石を輸送する中継地点らしいです。
貨物列車が長い間、停車していました。
駅舎二回は事務所と、もしかしたら駅員の宿舎にもなっているのか、なかなか大きな建物でありますね。
「深谷市川本総合支所」の前を通りました。
武川駅の周辺一帯はかつては大里郡川本町という自治体でしたが、2006年に他の町と一緒に深谷市に吸収合併されたそうです。
現在は川本という地名は無いのですが、今でもこの周辺、川本と名のつく施設が多々残っています。
東京都内にも流れている荒川の、ここがずっと上流になるわけですね。
仮にここから川下りをすれば、いずれは北区、荒川区、墨田区まで流れ着きます。
東京と地続き、川続きの埼玉県ですね。
植松橋で荒川を渡りながら、西の果ての秩父山脈を眺めます。
今回の旅では行けませんが、いつかは秩父方面の旅もしたいですねえ。
武甲山という名山が綺麗なんだそうです。
橋を渡った後、広い田園地帯を歩きます。
この辺りから町名が「畠山」になります。
この辺りは小麦の栽培が盛んなのですね。
大阪の地元に畑は多々あっても小麦は見たことが無かったので、とても珍しく思いました。
確かに埼玉は美味しいうどんが名物でした。
荒川の川べりに水神様を祀った石碑がありました。
こちらは庚申塔ですね。
案内板によると、この荒川の川辺にはかつて小麦粉を引く水車小屋がありました。
また秩父から江戸まで川で木材を運ぶ筏師、鳥の鵜を使って魚を取る鵜飼の人たちが多く住んでいたので、彼らによって水神様が祀られたのだろうということです。
小麦畑の最中にある井椋(いぐら)神社にお参りしました。
秩父発祥の畠山氏(秩父氏)が秩父で代々信仰していた椋神社を、畠山重忠の父畠山重能(はたけやま しげよし)がこの畠山の地に移る際に、秩父から勧請した神社だということです。
畠山重能は桓武平氏である秩父氏の一族で、秩父姓を名乗っていましたが、畠山に移ったことで畠山姓を名乗り始めました。
それでその子の重忠も畠山重忠です。
つまりこの界隈が畠山姓の発祥地というわけですね。
井椋神社の裏手の川べりに鶯の瀬公園があります。
案内板によると、畠山重忠が川向こうに家臣の榛沢成清(はんざわ なりきよ)を尋ねた帰り、豪雨と洪水で川を渡れないでいる中、鶯が鳴いてここの浅瀬を教えてくれたので渡って戻ることができたと。
浅瀬とは言え洪水の中を渡って帰ったというのは、畠山重忠はさすがの剛の者でありますね。
洪水でも何でもないですが、わりと流れが速そうでした。
畠山重忠の武具、茶器類が伝わっているそうです。
畠山重忠公史跡公園に着きました。
畠山重忠の居館跡ですね。
一の谷の戦いにおいて、愛馬の脚を傷つけないようにと背負って山の斜面を下る重忠の姿が銅像になっています。
怪力の持ち主である逸話が多く残る重忠。
文武両道で情けも兼ね備え、鎌倉武士の中でも特に名将の聞こえが高い人物でした。
源頼朝の配下で活躍し幕府の創業に貢献しますが、頼朝の没後、重忠は舅にあたる北条時政の謀略で一族もろとも滅ぼされてしまいました。
後の武家の畠山氏は、足利義純(あしかが よしずみ)が重忠の未亡人である北条時政の娘を妻とし、畠山氏の名跡と所領とを受け継いだものであります。
つまり後の畠山氏は、畠山重忠とは直接の血縁は無いということになります。
川本町時代に建てられた慰霊碑でした。
畠山重忠の無念を慰めるものでしょう。
畠山重忠とその重臣たちの墓所として、6本の五輪塔が祀られています。
お参りしました。
また、椎の木の下にある自然石が畠山重忠の父、畠山(秩父)重能の墓であると伝わっています。
樹木葬だったのでしょうか。
手を合わせました。
敷地内に、重忠の産湯に使われた井戸も残っています。
秩父重能と、相模国の有力者である三浦義明の娘との間に、ここで生まれた重忠。
産湯を使われている頃、将来自分の名声の大きさにより畠山の名が遥か後世まで残ることになるとは、彼とて知る由もなかったでしょう。
重忠橋を渡って、武川駅方面に戻ります。
ところで重忠橋を渡った対岸には、大規模な治水設備が設置されていました。
「六堰頭首工(ろくせきとうしゅこう)」という設備だそうです。
重忠橋の下で隔壁を稼働させ、荒川の流れを遮断してしまう仕組みなんですね。
かつて畠山重忠も洪水の中を渡ったと言いますし、荒川の流れとうのは荒れ狂うと恐ろしいのでしょうね。
治水さえできれば、川は沿岸に豊かな実りをもたらしてくれます。
秩父の山々の風景は、重忠の時代からそう変わってはいないでしょう。
後に子孫の河内畠山氏が治めた、河内国は石川流域の風景にもどこか似たところがあります。
国道140号線、かつての秩父往還を東に歩いて武川駅に戻りました。
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