思想的バックボーン
「思想的バックボーン」という言葉、何か自分に欠如しているものを言い当てられたようで、聞く度に背筋が寒くなる。
バックボーンというのが何のことなのかよくわからなかったが、よく考えたら背骨のことだ。
物を考える際に軸になる思想のことを指してそう呼ぶのだろうと思う。
自分にだってそれなりに喜怒哀楽があり、自分の周囲で起る出来事には何らかの思いを抱いて当たっているはず。
だが、思想的バックボーンと言えるようなものは無さそうに思う。
バックボーン、例えば、大学、専門学校等で特定の学問を修めて、それ以降の人生はその学問の理論に基づいて進路の判断を行っているとか、そういうことだろう。
あとは、読書をしていて、特定の著者の思想哲学に影響を受けているとか。
思想的バックボーンがある人は、そのバックボーンに基づいて価値判断を行っている。
自分には無いな、と思う。
背骨が無い。
あるのは喜怒哀楽だけだ。
これは嫌い、あれも嫌い、これは好き。
そういう感覚だけに頼って周囲の物事を振り分けて、対応している。
なぜ自分がその現象、事物に好悪の感情を持つのか、という分析に至っていない。
そうすると、人生観から自分の人生を選択しているのではなく、場当たり的な行動の連続でたまたま生きている、という結果になる。
人生の早い段階で思想的バックボーンを習得し損ねたので、自分の人生にとって重要なはずだった色んな機会を逃した、という思いがある。
背骨の無い動物は、自立することができない。
そう考えてみて、自分一人で納得した。
最近、うまくいかない日々をやり過ごすうえで老子の教え、道家思想がしっくりくる気がして関連の書籍などを読んでいる。
だが、それも、老子が、思想的バックボーンの無い人間でも選択できる生き方を提示しているから、という気がする。
あるいは自分が老子をそのように解釈しているだけかもしれないが。
背骨を得るための道家思想、ではなく背骨が無いままで生きるための道家思想、というか。
自分でそうやってうしろめたさを感じている時点で、すでに老子を誤読し、同時に侮辱していると思う。
不本意ながら、ではある。
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