『住宅地で味わう、坂転がり体験の娯楽』

長さおよそ1キロにわたる、長大で、かつ傾斜のきつい坂が眼下に延びている。 

その傾斜の角度はほぼ90度である。 

見下ろしていると、ひとりでに体が前のめりになり、坂を転がり落ちてしまいそうな錯覚に陥る。 

こんな急な坂が一般の住宅地内にあっていいのか、と不安になった。 

よくこんな斜めの土地に人が住んでいるものだと思う。 

急な坂の両側に建つ住宅は、工夫をこらした間取りで斜面を有効活用しているのだろう。 

「ごらんの通り、こちらの坂では自動車も自転車も通行は禁止されています」 

インストラクターが、私の横に立っている道路標識を手で示した。 

確かに、標識では自動車と自転車の図の上に白い斜線が入っている。 

インストラクターの男性は、頭にヘルメットとフェイスガード、胴体と手足、肘と膝には蛍光色のプロテクターを着けている。 

機動隊もかくやという重装備である。 

しかし、実を言うと私も同じ装備を身に着けていた。 

体の周囲が重い。 

総量で5キロはくだらないだろう。 

「歩行者が転がるのは大丈夫なんですかね」 

「歩行者に関しては、何ら規制されていません、法律上は」 

インストラクターは私の問いに自信たっぷり答えた。 

「では、他の歩行者の人は」 

「坂転がり体験のお客様がおられる間だけは、こちらからお願いして一般の方の通行は自粛していただいてます」 

彼が経営するアウトドアショップは、ちょうど今私たちがいる坂の上の丘にある。 

眼下の坂とその周辺の住宅地、さらにその先に横たわる雄大な山脈を望むことが出来る、絶好の位置取りだ。 

そのため彼の店は、二階に風景を眺められる大きな窓とテラス席とを持ったカフェを併設しているのだ。 

一階に本業のアウトドアショップがあり、そこで坂転がり体験の受付もしている。 

体験一度につき1000円を払って、プロテクター一式を借りた上、店主兼インストラクターである彼のガイドを受けられる坂転がり体験である。 

私も、一生に一度はこの長大で急峻な坂を転がり降りてみたいと思ったのである。 

素人には危険かと悩んだが、インストラクターが手本を見せてくれるなら安心できる気がする。 

体験を申し込んだ私のプロテクターの着付けを手伝いながら、彼自身も慣れた手つきで同じ装備を着込んだのだ。 

「心の準備がお出来になったら、いつでもどうぞ。私が横で見守っています」 

インストラクターは景気のいい声で言った。 

ふいをつかれた気持ちになった。 

先に、インストラクターが見本を実演してくれるものだと思っていた。 

「あの、まずお兄さんが見本とか見せてくれるんじゃないんですか?」 

「店には私の他に誰もいませんので、私が長時間店から離れるわけにはいかないんです」 

そう言われては、こちらもあまり強く出ると気の毒かもしれない。 

では、なぜわざわざ彼までプロテクターを装備したのだろう。

「あの、じゃあなんであなたまでそのプロテクターを」 

「転がる土壇場になって、怖気づいてしがみついてくるお客様がおられるんですよ」 

「はあ」 

「そんなときにこちらが無防備だと、巻き込まれて一緒に坂を転って怪我をしてしまいますからね」 

しがみつこうにも、彼は道の反対側に立って私と距離を置いている。 

ずいぶん用心深いことだ。 

彼を頼ることはできない。 

不安になった。 

しかし一度やると決めたことだし、今さら引き返すのも気がとがめる。

 流れに従って、転がってみようと思った。 

「よいしょっ」 

しゃがみこんで、膝を抱えて丸くなる。 

その体勢で、頭を前に傾けて重心を移動させた。 

体が前に倒れていく。 

急な坂に向かって前転を繰り出すのは、予想以上の恐怖をともなうものだった。 

しかし、体はすでに眼下の坂に向かって前転を始めていた。 

がつっがつっ。 

縦方向に回転を加えながら、なし崩し的に、体の前面背面が立て続けに斜面にぶつかる。 

ヘルメットとプロテクター越しに、緩和された衝撃が体に伝わる。 

速度は早い段階で高まった。 

上下の感覚がもうない。 

天と地が、自分の鈍い運動神経では把握しきれない 

頭と尻を何度も斜面に強打し、その度に全身に衝撃が来るので、はずみで膝を抱えた両腕が解けないようにしっかりと腕に力を込めていないといけない。 

いっぱいいっぱいだった。 

ただ装備しているヘルメット、プロテクターのおかげで衝撃はかなり吸収されているらしく、痛みもごく軽いものだけで済んでいるのだった。 

がつっがつっ。 

感覚がおかしくなるし、衝撃もある。 

だが、高速で坂を転がり落ちていて、私の中には不思議な快感が次第次第に芽生え始めていた。 

アドレナリンが出るスポーツ、というのはこういうものだったのか。 

運動音痴でスポーツに興味も無かった私には、今まで縁のない世界だった。 

しかし、気持ちがいい。 

坂転がり体験に感謝したい。 

いい気分になって転がっている。 

そのうちに、速度が落ち始めていた。 

変だ、と思ったら斜面の角度が緩くなっているのだ。 

坂は、途中で傾斜の角度が変わっていた。 

自らの前転速度は遅くなる。 

斜面の上を飛び跳ねるようだった転がりは、斜面にぴったりと張り付いての転がりに鈍化していく。 

ああ、と思っている間に遅くなった。 

最後には私は平地の上で膝を抱えたまま仰向けに止まっていた。 

終わってしまった。 

もう少し、転がっていたかったのだが。 

物足りない。 

まだ上下に回っている名残りで、視界が縦方向に回転するような感じがある。 

ふらつきながら、立ち上がった。 

坂の下の土地にいる。 

坂を見上げた。 

急峻な傾斜で1キロの長さの坂である。 

これから、5キロを超える重さのプロテクター一式を、坂の上の店にまで返しに行かなければならない。 

坂を登り始めて、間を置かず私は息が切れ始めた。 

楽しかった坂転がり体験も、それなりに体力を消耗している。 

その後に、この行程は厳しい。 

人が乗れるゴンドラを用意しろとまでは言わない。 

だが坂道の脇にでも、使用後のプロテクターを回収するリフトか何か設置してくれないか、と私は思った。

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