『食券を買わずに男は店内で暴れる』
「牛肉だ、牛肉をよこせ」
大きな肉切り包丁を持った男が、牛丼店の店内に乱入した。
カウンター席で丼を口に寄せてご飯をかきこんでいた義雄(よしお)は、横目で男を盗み見た。
自動ドアの手前にたち、両手で握った包丁を腰だめにかまえたその男は、冷静さを失った顔だちである。
「おい、俺に牛肉をよこせ」
やたらめたらにわめいている。
義雄を含めカウンター席に腰掛けた客たちは皆、迷惑そうに男の方を盗み見るか、彼がいないかのように無視して食事を続けるかのどちらかであった。
カウンター内で忙しく立ち働く二人の従業員は、調理に手を取られながらちらちらと男をうかがった。
「牛肉をよこせ」
入口をふさいでわめくものだから、中に入りたい人たちが店の外で立ち往生させられている。
従業員の一人、パートタイムで勤務している木田淳子(きだじゅんこ)はそれに気付いて、眉間に皺を寄せた。
「お客さん、食券買ってください。そこの食券機で」
「牛肉だ」
包丁の男はその場でばたばたと足踏みをする。
騒々しい。
男の近くの席に座っている客も迷惑そうな顔になった。
「食券でどうぞ」
「牛肉をよこせ」
木田の催促にも関わらず、男は自販機を無視する。
「牛肉」
義雄は固唾を飲んで状況を見守った。
もはや食事どころの騒ぎではない。
「牛だ牛」
「お客さん、まず食券を買ってください」
木田は辛抱強く言った。
男はまた足踏みする。
「食券とか関係ねえよ」
食券を売る自販機に向かって吠えた。
もしかしたら、金を持っていないのかもしれない。
俺が入口近くの席にいたら、あの男に何がしかの金を貸し牛丼を買わせて事態の沈静化を図るのだが。
義雄はそう思った。
だが、今入口近くの席に座っている客は、迷惑そうに横で暴れる男を見るばかりである。
「豚、豚肉でもいいからくれ」
業を煮やした男は妥協したらしいが、それでも誰も相手にしない。
「食券を買ってください」
木田は腕組みをして相手を見据えている。
この忙しい時間帯にまったく、と彼女は内心思っている。
先ほどから、調理と接客で手を取られっぱなしのもう一人の従業員が、仕事の手の止まった木田を非難がましく見ているのだ。
「食券は駄目。牛肉そのものをくれ」
男はわめいた。
誰も彼もがうんざりし始めた。
入口近くの客は包丁男をにらみつけている。
「おっさん、いい加減うるさいんだよ、俺の横で。食券買えって言われてんだろ」
客はとうとう逆上した。
包丁男は目を丸くして相手を見返している。
予想外の反撃だったらしい。
「食券買えよ。買わないんだったら出てけよ」
入口席の客は怒鳴りつけた。
他の客も同意するような顔で彼の言葉にうなずいている。
「…食券は、買いたくない」
包丁の男は絞り出すように言った。
表情から怯えがうかがえる。
義雄は彼を気の毒に思った。
他の客たちは義雄のように同情的ではなかった。
「気が散るから出て行け」
「金がないなら帰れ」
口々に、男に罵声を浴びせ始めたのだ。
男の顔に怯えの色がますます強まった。
店内の客全てを敵に回すことは予想していなかったと見える。
「金は、あります」
男は小声で言った。
「金あるんだったら黙って食券買って飯食って帰れよ」
入口席の客がすかさず怒鳴って返す。
そのとき、包丁男が反射的に、相手の顔をにらみつけた。
危ない、と義雄は息をのむ。
「食券は絶対に、買わない」
力強い声だった。
包丁男はバン、と肉切り包丁をカウンタの上に叩きつけるように置いた。
入口席の客が体を萎縮させる。
「奥さん。牛肉、売ってくれ」
包丁から解放された包丁男は、カウンター内からにらみつけている木田に向かって呼びかけた。
「お肉を買うなら精肉店でどうぞ」
木田の声は冷たい。
男の心情を思い、義雄は人知れず涙を流した。
価格:14,800円 |