『夜半の通路とカップ麺』
小腹が空いたからカップ麺の自販機でも冷やかしに行こう。
深夜二時頃、そう思って席を立ち、自室から通路に出たまではよかった。
幅が狭く、ランプ明かりに照らされた薄暗い通路だ。
長々と続いている。
その通路の両側には、私の自室のものと同じような扉が無数に並んでいる。
私の自室は801号室で、この号数からもわかるとおりこの建物には客室が多い。
20階建てだ。
その建物の8階の通路に自室から私は出てきた。
各種自販機の設置された休憩所に向かうつもりだった。
ただ、すぐに心変わりした。
休憩所は、通路を左方向に行ったところにある。
何気なく左方向に目を向けた。
自分の立っている場所から5メートル程度向こうの場所で視線が止まった。
狭く薄暗い通路の真ん中に、得体の知れないものがしゃがみこんでいた。
しゃがみこんでいると私が言うのは、ともかく手足を持っていることは確認できたのだ。
膝を曲げ両脚を腕で抱え込むように、しゃがみこんでいる。
手足があって、胴体の上に頭らしいものも乗っている。
ただそれは人間ではなかった。
その得体の知れないものがうっすらと透けていて、その体ごしに通路の向こう側が目視できる。
体の輪郭線はおぼろげに確認できるものの、それ以外の部分は曖昧なのだった。
そんな曖昧な人間はいない。
得体の知れないものだ。
身じろぎもしないで、その半透明のものはそこにいる。
頭部に目を持っているのかどうかまでは、私には見えない。
しかし体をこちらに向けて、私を見ているようなたたずまいなのだ。
私は突っ立ったまま、ただ相手のことを見据えた。
何秒か、猶予があった。
ふいに、その得体の知れないものの体が前に傾いたような気がした。
と思う間もなく、今まで脚を抱いていた細い腕が一本、前に伸びた。
床に手をついた。
手指は長い。
両膝がぼたり、と床に落ちる。
床の上の手の後を追うように上体が前に出る。
後ろに残った両膝と足先がばたばたと動いて床を蹴る。
這う動きで、床上すれすれをその体がこちらに来た。
「はーっ」
私の声が静寂を破った。
無意識に出た甲高い裏声だった。
声が出ると同時に、体も動いていた。
背後に向けて全身回転し、さっき出てきたばかりの自室の扉を開けて、中に潜りこんだ。
後ろ手に扉を閉めた。
すぐさま扉の取っ手についたシリンダーを回し、施錠した。
照明をつけたままの自室は、外の通路より明るい。
その明るさに、扉に背をつけたまま、少し安堵する。
だが、背中に立て続けに細かな衝撃が来た。
「あっ、あっ」
思わず喉から声が漏れた。
外側から扉に体当たりをする、その重みが背中に伝わる。
がちゃがちゃ、外から扉の取っ手を回す音。
扉が開かないとわかると、再び体当たりを浴びせてくる。
だが、扉も錠も堅固だ。
このまま体当たりで破られるというおそれはない。
私は息をついた。
そう言えば、定期的にまわって来る回覧板に、いつも書かれている一文があった。
「午前二時から午前三時までの時間帯は、自室外への外出はお控えください」
理由も何も明記されず、気にも留めなかった。
おかげで恐ろしい目に遭った。
いまだ、背後で扉への体当たりは続いている。
がつん、がつん、がつん。
がちゃがちゃ。
今夜は眠れそうにない。
扉から離れ、私は室内に戻った。
カップ麺の自販機がある休憩所には辿り着けない。
ただ、台所で苦し紛れに戸棚を漁ってみると、備蓄していたカップ麺が奥にひとつ見つかった。
賞味期限切れ間近だし、食べたい銘柄ではない。
でも、私は嬉しかった。
お湯を沸かしてこれを食べよう。
私は小型湯沸しポットに水を入れ、台座にセットした。
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