『熊殺しと異常な五人』
どこかで見たような奴が前のめりになって、覚束ない足取りで歩いている。
大きな男で、頭から血を流していた。
学生だ。
学生服の黒い上着が、ぼろぼろである。
前がはだけて、白いシャツと胸板がのぞいている。
歩き方も頼りない。
意識朦朧としているのかもしれない。
通行人たちは、遠巻きにして見ている。
ああいう訳ありの人物には関わらないのが無難だ、と居合わせた餅田万寿夫(もちだますお)は思った。
万寿夫が尊敬する剣豪、塚原卜伝(つかはらぼくでん)も避けられる危険は避けるように伝えている。
大男は学生服姿だし、どこかで見たような奴だ。
だが、うまくやり過ごそう。
万寿夫は横目に見ながら、知らん顔をして脇を通り抜けようと思う。
すたすたと歩いた。
距離が近くなって、ぼろぼろの男の顔がはっきりした。
万寿夫は気付いた。
自分の同級生だ。
同級生の、但馬金太郎(たじまきんたろう)である。
万寿夫は驚いて立ち止まった。
金太郎は万寿夫が通う私立高校の柔道部員で、友人とまではいかないが、お互い面識がある。
不良グループと付き合いがあるという噂のある男だが、本人の性格は悪くない。
金太郎は、万寿夫に気付かずにそのままふらふら歩いていこうとする。
「金太郎君」
万寿夫は、金太郎に駆け寄ってその腕をつかんだ。
金太郎の体は前につんのめった。
勢いでバランスを崩しそうになる。
万寿夫は慌てて金太郎の体を腕で支えた。
そこでようやく金太郎は、焦点の合わない目で万寿夫を見た。
頭から流れた血が、両目の間を流れて顎の下にまで垂れている。
万寿夫は金太郎を真っ直ぐ立たせた。
「金太郎君、大丈夫か。出血してるぞ」
「あんた。熊殺しの」
金太郎の目の焦点が定まって、はっきりと万寿夫の視線と合わさる。
万寿夫はしばらく前に、学校の生徒指導官で体育教師の田中金治(たなかきんじ)と揉め事を起こした。
その際、相手を病院送りにしている。
田中金治は生徒たちから熊と恐れられるほどの巨体と凶暴性とを兼ね備えた男だった。
そのために、万寿夫は自然に「熊殺し」とあだ名されるようになっている。
そう呼ばれるのを嫌う万寿夫にとっては不名誉ながら、いまや「熊殺し」の通り名は街の裏社会にまで認知されつつあった。
「餅田君」
「うん」
「元気か」
金太郎の声の調子はおかしい。
「元気だけど、そんなことより君、病院に行った方がいいよ」
万寿夫は、金太郎の頭部の方を顎でしゃくった。
出血しているのだ。
「いや、病院に迷惑をかける」
ぼろぼろの格好をしながら、金太郎は万寿夫の腕を振り払った。
また前のめり気味に、前に進み始めた。
「迷惑って、何の?」
「あんたにも迷惑かけたくない、放っておいてくれ」
金太郎は背中を見せたまま言い捨てた。
ふらふらと離れていった。
万寿夫は首をかしげた。
心配ではあるが、本人が放っておけという以上、仕方がない。
金太郎とは逆方向に歩いた。
不可解なことには、関わらないのが一番だ。
しばらく歩いていた万寿夫は、前方に異様な風景を見た。
車道の上を横に広がって、徒歩の男たちが歩いている。
万寿夫は驚いて足を止めた。
男たちは、全部で五人。
年恰好は、ばらばらだ。
だが、彼らの動きは奇妙に統制が取れていた。
後ろから来た車にクラクションを鳴らされると、全員が立ち止まり、振り返ってにらみつける。
それぞれが異様な目つきを持っていた。
端から見る限りでも、恐ろしい眼光なのだ。
五人がまとっている普通でない空気に気付いて、後続車のドライバーはそれ以上の抗議ができない。
のろのろと五人のペースに合わせ、後ろに従うほかないのだった。
また対向車は、彼らの姿を目の当たりにして、慌てて路肩に車を寄せた。
五人は、後ろから来る車も前から来る車も威圧して、横並びのまま車道を進んでくる。
この五人は揃いも揃って柔道着をまとっていた。
白い、ところどころに染みのある柔道着を、全員が全員白帯で締めている。
彼らの柔道着の染みが、変色した血であることは遠目に見ている万寿夫にも察しがついた。
返り血なのかもしれない。
そして彼らは、車道を裸足で歩いている。
正真正銘、異常者の集団だ。
頭から血を流す金太郎どころの騒ぎではない。
何だか最近、妙に柔道と縁があるな、と思いながら万寿夫は道の端に避難した。
万寿夫が見守る前を、異様な柔道家の集団は同じペースで進んでいく。
脇目も振らない。
柔道家たちの後ろ姿が遠くなった。
その背後に、低速で進む自動車の列が続く。
「誰か、通報した方がいいんじゃない?」
異様な五人組が去ったあと、街の人たちはささやき合っている。
「何かやらかしそうな雰囲気だった」
「いや、もうやらかした後かも」
「柔道着に血、いっぱいついてたよね」
物騒な世の中だな、と思いながら万寿夫は通り過ぎようとした。
ぼろぼろになって頭から血を流しながら、前のめりに歩き続けていた柔道部員の金太郎。
その後ろから、周囲を威圧しつつ闊歩する異様な柔道家の集団。
両者には何か関係があるんだろうか、と何気なく思った。
万寿夫は、息を飲んだ。
金太郎は、あの集団から逃れようとしていたのかもしれない。
頭部からの出血と服装の乱れは、一度襲撃に遭った名残りだと推測できる。
かろうじて逃れたが、意識朦朧として歩いている金太郎。
その後ろから、確固とした歩調で異常な柔道家たちが迫ってくる。
両者に何のいきさつがあるのか知らないが、ただならぬものを感じる。
たまらず、万寿夫は眉間を揉んだ。
最近、どうしてこう面倒ごとに巻き込まれてばかりなのだろう。
五人組は、金太郎に追いついていた。
車道の真ん中に、金太郎が引きずり出されている。
小柄な男が、もがく金太郎につかみかかり、襟首をとらえた。
巨体を軽々と持ち上げている。
男は自分の足元に身を沈めるような動きで、金太郎の体を引き込み地面に叩きつけた。
それは、受身が取れない投げ技だ。
金太郎は背中ばかりでなく、後頭部もアスファルトに打ち付けたらしい。
叩きつけられた後、地面の上で体を痙攣させている。
小男はその金太郎に馬乗りになり、襟をつかんだまま、腕で首を絞めにかかっていた。
他の四人は皆が腕組みをして、金太郎がリンチに遭うのを眺めている。
こいつらを全員半殺しにしても、自分の良心は痛まない。
万寿夫は、現場に駆け込みながら自分に言い聞かせている。
立っている男たちの一人が万寿夫の気配に気付いた。
その時にはすでに、彼の股下に潜りこんだ万寿夫の肘が男の股間を直撃していた。
ぐえっ、とうめき声が頭上で聞こえる。
股間をかばって前のめりになる男の、柔道着の足を裾ごとつかんで、万寿夫は相手の体を後方に放り捨てた。
背後で、男の体が地面を打つ音を聞く。
受身が取れたかどうかは知らないし、気にしない。
近くに立っていた男が、反射的な動きで万寿夫に襲いかかる。
両手を開いて、つかみかかる動きだった。
速い。
速いだけに、それをこちらで上回りさえすれば、いっそうの衝撃を相手に与えることができる。
相手の腕をかいくぐった万寿夫は、自分の頭頂部を相手の胸元に突き刺している。
頭蓋骨の頑丈な部分を、相手のもろい胸骨の隙間に放つのだ。
たとえ強靭な肉体を持った人間でも、耐えるのが難しい攻撃だ。
男は、仰向けの体勢で後方に吹き飛ばされた。
地面に叩きつけられて、微動だにしない。
今の俺に良心の呵責はないぞ、と万寿夫は頭をさすりながら自分に言い聞かせた。
金太郎は、いまだ小男に絞め技をかけられている。
小男は、絞めるのに夢中なのだ。
さっさと他の連中を片付けて助けに行かなければ、と万寿夫は焦る。
まだ二人、残っている。
一人が、万寿夫の前に立った。
体を横にした構えだ。
万寿夫は、相手の目を見た。
相手は不思議な目つきで、なぜか視線が合わない。
やりにくい、と思った。
何をしてくるか、読めない。
側面を見せる男の上半身が、その後方に大きく沈む。
その動きに釣り上げられるように、男の足の裏が延びてきて万寿夫の顔面を襲った。
中国拳法またはテコンドーなどで使われる、サイドキックという技だ。
有名な技なので、万寿夫も知っている。
しかしそんな技を柔道家が半端に使うから痛い目に遭うのだ、と万寿夫は心の中で吐き捨てた。
サイドキックを繰り出した男の足裏は、万寿夫が高速で突き出す頭頂部に受け止められた。
蹴りに込められた力と万寿夫の頭突きの持つ力が、蹴りを出した男の膝にかかる。
男の膝は破壊された。
男は地面に転がった。
膝を抱え、もがいている。
脱臼ぐらいで済んでれば幸運だな、と万寿夫は思う。
この連中に対しての優しさは、万寿夫にはない。
残る一人は、仲間三人がたて続けに倒されるのを目の当たりにしても、動揺してはいなかった。
その目とはやはり焦点が合わず、万寿夫は相手が何をしてくるか読めない。
相手は、じわじわと距離を詰めた。
近い。
「はしゅ」
唇の先から空気を押し出す音と共に、男は尖らせた手刀の切っ先を放ってきた。
空手か、柔術か、何の技だかわからない。
だが、万寿夫の動きを上回ることはできなかった。
手刀を出した男の腕が伸び切る前に、万寿夫は相手の脇の下に肘を当てる。
男は悶絶した。
立ったまま体を硬直させる男の足をつかんで、万寿夫は地面に引き倒した。
片付いた。
地面で転がっている四人を背にして、万寿夫は地面の上でもつれている金太郎と小男に近づいた。
小男は、初めて背後から万寿夫が放っている不穏な気配に気付いた。
金太郎に馬乗りになったまま、万寿夫の方を振り返る。
人に絞め技をかけた状態では、万寿夫が放った平手打ちを、見切ることすら難しかった。
異常な五人と金太郎はそろってアスファルトの上に倒れている。
万寿夫はしゃがんで、金太郎の鼻先に耳を近づけた。
後頭部から新しく出血しているし、意識はないが、ともかく息だけはしている。
ひとまず安心した。
彼が脳に深刻なダメージを受けていないことを万寿夫は祈った。
「警察呼んで。あと、救急車も」
沿道の商店に、通行人が大声で叫びながら駆け込んでいる。
周囲には、いつの間にか人だかりができていた。
もしかしたら、万寿夫の戦いぶりは観戦されていたのかも知れない。
万寿夫は舌打ちしたい気分だった。
誰かがスマートフォンで動画を撮って投稿でもしていたら、面倒だ。
しかしそんな心配をする元気も、今の万寿夫にはなかった。
警察も救急車も間もなく来るだろう。
万寿夫は、金太郎の頭を動かさないように気をつけながら、彼の巨体を歩道にまで引きずって移動させた。
柔道着を来た五人のことは、車道に放置する。
連中が自動車に轢かれようと知ったことじゃない、と思う。
集まった人たちの好奇の視線を避けるようにして、万寿夫はその場を離れた。
落ち着いた後も、何だか血なま臭い気分が抜けきらない。
家に帰る道すがら、万寿夫は彼には珍しく、ファーストフード店に寄った。
牛肉とスライスチーズがパンからこぼれ落ちそうなハンバーガーに、店内でかぶりついた。
肉を咀嚼しながら、やはり自分は肉類は苦手だ、と万寿夫は顔をしかめた。
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