『道の端で泣き声をあげる人』

泣いている人を見て放っておいたら、後日の寝覚めが悪い。

「えほえほえほ」

そんな声をおおっぴらにあげて、人通りのない路地裏の隅に立ったまま、泣いている人がいるのだ。

両手で顔を覆っているが、女性であるらしい。

長い黒髪が、グレーのコートを着た両肩にかかっている。

偶然その場を通りかかった菊江(きくえ)は、放っておけなかった。

「あの、大丈夫ですか」

菊江は女性に近づいて声をかけた。

「えほえほえほ」

女性は泣き声をあげ続ける。

気の毒だな、と菊江は思った。

彼女は用件があって外に出てきたが、特別急いでいるわけではない。

見知らぬ人に少しぐらい親切にしていくだけの時間の余裕はある。

「あの」

「えほえほえほ」

女性は菊江に反応せず、同じ調子で泣き続けている。

顔を両手で覆っているのでその表情はわからないが、泣いているのだ。

悲しい顔をしているのだろう。

気の毒である。

菊江自身は悲しいときにこの女性のような泣き方をすることはないが、場合によってはそうも言っていられないのかもしれない。

ひどい泣き方は、ひどい悲しみによって引き起こされるのかもしれない。

だとしたら同情しないわけにはいかない。

「もしよかったら、何があったか話してくれませんか?」

話しかけながら、菊江は女性の腕に優しく触れた。

が、すぐにその腕を引き戻した。

反射的にだった。

 

菊江は気付いたのである。

顔を覆っていた女性の両手の指の隙間から、二つの目がこちらを見ている。

それは、泣いている目ではなかった。

何かを面白がるように、頬の肉に押し上げられて細められた目である。

その表面に涙などない。

 白目の部分が乾き、激しく血走っていた。

瞳の焦点が、菊江の顔にしっかりと定まっている。

「えほえほえほ」

「ひっ」

菊江は思わず後ろに飛び退いた。

泣いていると思った女性は、泣いていなかった。

なんで自分はこの人に声をかけてしまったのだろう、と菊江は後悔した。

女性は、顔を覆っていた両手を下ろし、両脇にだらりと垂らしている。

青白い顔が露わになる。

盛り上がった頬と目尻の下がった両目、異様に口角の上がった口が菊江に笑みを向けていた。

「えほえほえほ」

薄い紫色の唇がひらひらと動いて、先ほどからの声を再び発した。

泣き声ではなかった。

笑い声なのかもしれない。

意味のない声なのかもしれない。

「えほえほえほ」

青白い笑顔が、ずいっと菊江の方にせり出してきた。

「ぎゃっ」

菊江の喉から、激しい悲鳴が漏れた。

自分でも意識せずのことだった。

後ろに尻餅をついた。

地面の上でもがいた。

女性は、低い位置の菊江に上から覆いかぶさる動きで両手を伸ばしてくる。

菊江は転がった。

女性に背中を向けて、肘を使って這った。

もがいた。

何とか立ち上がることができた。

背中に鈍痛が走る。

殴られたのかもしれない。

前のめりになった。

空中を両手でかくようにして、菊江は走った。

何度もつまずきそうになりながら、その場から逃げ出した。

 

夜になり、菊江は帰宅している。

まだ動悸が収まらない。

机を前に座って、菊江は胸に手を当てて呼吸を整えた。

このままでは眠れそうになかった。

興奮した心を、鎮めなければならない。

菊江は深呼吸した。

「えほえほえほ」

あの女性の真似をして、口先から声を発してみた。

「えほえほえほ」

奇妙に気持ちが落ち着いた。

「えほえほえほ」

一度始めると、何度も発したくなる。

菊江は愉快な気持ちになった。

「えほえほえほ」

今夜は、ぐっすり眠れそうな気がする。

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