『空の上でも人間は一緒』

こんな辛い思いをするのなら、搭乗前にやたらに飲み物を飲まなければよかった、と思っている。 

「知識があるのとないのとでは大違いですよね」 

隣の席で、私と肩を並べるよしやんが上機嫌で喋っている。 

よしやんは私の後輩だ。 

私より5歳若い女性だ。 

私たち二人は今、飛行機に乗っている。 

私の席はもともと通路側だった。 

だが搭乗時、よしやんが気前のいいところを見せて窓際に座らせてくれたのだ。 

辞退するべきだった。 

「知識がないと、いざってときに薀蓄が浮かびませんもんね」 

機内サービスの赤ワインを、よしやんはグラスから美味しそうにずぶずぶとすすっている。 

ワインを音をたてて吸ったりしてはいけません、とひとこと言いたいのだが、私にはもうその余裕もない。 

「うまいうまい。何でしょうこの赤ワイン」 

「さあ」 

「どこの赤ワインですかね?産地どこ?」 

私だって知らないというのに、グラスを掲げてむやみに私の顔を覗き込んでくる。 

彼女は何でも私に尋ねてくるのだ。 

私だってワインに詳しくなんかない。 

私の座席テーブルの上には、料理も赤ワインも残ったままだった。 

実は、おなかはすいている。 

でもお手洗いに行きたくて、食事どころではない。 

よしやんは赤ワインの合間に、機内食のグラタンに舌鼓を打っている。

これから二人でフランスに行く。 

私たちが乗る飛行機はフランスの航空会社のものなので、機内食はフランス料理だ。 

よしやんは幸せそうだ。 

「うふふ」 

よかったね、と普段なら一緒になってはしゃぐところだが、状況が悪い。 

我慢の瀬戸際だ。 

「よしやん」 

「先輩、ごはん進んでないですね」 

「そうなの」 

私は、苦しい息を吐いた。 

よしやんに苦境を伝えなければならない。 

「このオリーブの実のピクルス?みたいなの、うまいっすよ。食べないならもらっていい?」 

よしやんは私の顔を覗き込んでいる。 

私はつらさのあまり、まだ一口も食べていないのだ。 

本当は食べたくないわけではない。 

「い、いいよ」 

「やったあ」 

彼女は返事を最後まで聞かずに、私のテーブルの上のオリーブにフォークを刺した。 

口の中に手際よく放り込み、頬張っている。 

「普段こんなの食べる機会ないですけど、わりとうまいですよね」 

私は涙が出そうだった。 

苦しんでいる人間の横でこんなに美味しそうに食べることないのに、と思う。 

「よしやん」 

「どうしたんですか。あ、先輩こんだけじゃ食べ足りないですか?あたしのご飯あげます」 

よしやんは、バターライスの入った容器を私のテーブルの上にどすんと置いた。 

「あ、ありがとう」 

彼女には酒飲みの素質があるみたいだ。 

肴にならないものに関しては気前がいいのだ。 

炭水化物への執着が薄いらしい。 

それにしても、食べ足りないも何も、私はまだ料理に口をつけてすらいない。 

私の顔色が悪いのに、どうして気付いてくれないのだろう。 

私はもう泣きそうになった。 

「よしやん、実は私、相談が」 

「相談?やだ、ご飯食べてるのに、やめてくださいよ辛気臭い話は」 

よしやんは大声で笑い飛ばすのだ。 

彼女の言う通り、ごはんどきに切り出すのが不躾かと思って私も切り出せないでいる。 

こう言われると、私は出鼻をくじかれたような気になった。 

「あ、あの、よしやん、でもね」 

「え~やめましょうよお」 

朗らかに歌うようにこちらを諭すよしやんだ。

 だが、私はもう限界が近い。 

「そうじゃないの。お手洗いに行きたいの」 

「あら」 

彼女は口元に手を当てた。 

目が笑っている。 

よしやんは、もう酔っているのかもしれない。 

「そういうことは早く言ってくださいよお」 

「そうよね。そうよね。私が悪かったわ」 

私はもう歯を食いしばる思いだった。 

「で、お手洗いに行きたいの」 

「行きましょう」 

よしやんは頼もしく請け合った。 

「うん」 

「行きましょう」 

「で、この状況で私はどうしたらお手洗いに行けるかしら」 

ずっと解決策が思いつかなかったのだ。 

私の座席もよしやんの座席も、前の座席に付属したテーブルを膝の上に降ろしている。 

さらにその上に、各種おいしそうな料理を載せている。 

テーブルがあるので私は席を立てない。 

「私、どうしたらいいと思う?」 

「昔の戦闘機乗りは、空になったお酒の一升瓶を操縦席に持っていったらしいっすよ」 

よしやんはしみじみと語った。

私は、のみこめない。 

「何の話?」 

「ですから、パイロットはお手洗いを一升瓶で済ませるんですよね」 

私は思わず口元を押さえた。 

「やだっ」 

「添乗員さんなら赤ワインの空き瓶持ってるはずですけど」 

「いやです」 

私は首を振った。 

お手洗いにどうすればたどりつけるか相談しているのに、お手洗いに行かずに解決する方法を彼女は提示しているのだった。 

でも、彼女も酔っている。 

素面なら彼女もこんなことは言わない。 

「あんまり悪趣味なこと言わないで」 

よしやんは平気な顔で、人のオリーブを横取りしてぱくぱくと食べた。 

「それなら、もう仕方ないでしょう。私は通路に立ちますから、先輩は私たち二人のテーブルの下を潜り抜けて、通路に出てくださいよ」 

酔って、感情の起伏がおおまかになった顔でよしやんは言った。 

しかし、言っていることは合理的だ。 

彼女に通路に立ってもらった後、私は彼女の言葉に従って、自分のとよしやんの座席テーブルの下を潜り抜けた。 

もちろん、体を小さくしてやっとのことだった。 

よしやんの協力があったので、私は通路に出ることができた。 

まだ他の乗客の機内食を給仕している添乗員の方々の邪魔にならないよう、ずいぶん神経をすり減らしながら通路を手洗いまで進んだ。 

やっと用を足せた。 

安堵のあまり、涙がこぼれた。 

どうしようもなくなったら、どうしようとずっと心配していたのだ。 

席へ帰ると、どうも私のテーブルの上の料理が少なくなっている気がする。 

「よしやん、私の料理盗み食いしてない?」 

「先輩は人聞きの悪い。落ち着いたせいで、見えないものも見えるようになったんじゃないですか?」 

これからこの娘と一緒に外国をまわるのだと思うと、私は気が気ではなかった。 

テーブルの上に残った機内食を、食欲に任せてたいらげた。

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