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『通勤電車内に立つ、か細い女性』

朝からその女性の、顔色の悪さが妙に私の心をとらえた。

頬のこけた、か細い体格の女性だった。

いったいどうしたのだろう、と私は思う。

私はいつも通り、朝から通勤の電車に乗って。

座席を確保している。

そうやって座っているからこそ、他人の顔つきを鑑賞できる余裕があったのだ。

乗っているのは、ひなびた地方都市をいくつか貫通するに過ぎない鉄道路線で、通勤客の多さはさほどでもない。

ところが、学生が多いのだ。

 

学生はひどい。

電車の到着前、プラットホームには通学学生の群れが思い思いに広がって、空間を占有している。

電車が到着したら到着したで、降車客が降りきった後も、彼ら学生はさっさと電車に乗り込まない。

数人の仲間同士で雑談をしながら、もののついででもあるかのように、のろのろと電車に乗り込むのである。

その彼らの後ろに並んでいる私のようなものは待たされ席を確保できず、たまったものではない。

乗り込んだ私は、電車内の通路をふさぐ学生群を押しのけたい衝動に駆られながら、通路の中ほどに進むのである。

運がよければ、今日のように座席を確保できる。

それにしても、通学するマイペースな学生の群れは、私のような通勤客にとって結構な負担だ。

通勤客と通学客では時間と空間に対する意識に差があるので、こういう事態はやむを得ないのかもしれない。

学生には学生の人生があって、電車にさっさと乗り込みたくない、時間があれば仲間と雑談していたい。

そんな事情があるだろう。

かつて学生だった私にもその気持ちがわからないではないだけに、突っ立っている彼らの間をすり抜けて。

空いている座席を確保した後、自分の年齢について思いを馳せる。

そうしながら、ふと目の前に立つ人の気配が気になった。

妙な気配なのだ。

目の前の人物の足元を、盗み見た。

黒いロングスカートの裾から、黒のタイツに覆われた細い足首がのぞいている。

尖った黒い皮靴。

好奇心から相手を見上げて、そんな彼女の顔を目にしたのだ。

顔色の悪い女性だった。

年齢は、私とそう変わらない。

若ければ20代後半、多く見積もっても30代後半というところだろう。

背の高い細身、長髪の女性で、セーター、スカート、タイツに皮靴と、全て黒一色に統一した衣装に身を包んでいた。

小脇に、丸々とした黒色のハンドバックを抱えている。

座席に腰掛けた私の目前に立ち、つり革に細い腕を伸ばして、かろうじて立っている。

かろうじて立っているというのは、時折電車が難所にさしかかって車体を揺らせる度に、女性の体も大きく揺れるのである。

その様子は、つかまっているつり革に振り回されるような形なのだ。

両隣に立つ学生たちの体にぶつかるすれすれで、かろうじてバランスを保って立っている彼女なのだった。

前述したとおり、顔色が悪く、頬がこけている。

そして端的に表現すれば、青い顔をしている。

目は切れ長で、鼻筋は細く通っていて、唇は薄い。

その彼女は、目前に座る私の膝頭をみつめながら、走る電車の車内に消え入りそうなたたずまいで立っている。

具合が悪いのであろう、と私は思った。

私は普段、よほどの高齢者か妊婦相手にでもなければ席を譲ったりはしないのだ。

だが、目前の彼女は具合が悪そうだ。

私の世間体を考えると、席を譲った方がよさそうに思えた。

私は、腰を浮かせた。

彼女の表情をうかがいながら。

そして顔を上げた彼女と、目が合った。

私の顔を、驚いたように見返す目だった。

「どうぞ」

私は、やや気後れしながらも、女性に声をかけた。

そうしながら、注意深く女性の顔を見守っている。

周囲には、興味津々な年頃の学生たちであふれているのだ。

下手に女性と言葉のやりとりなどして、彼らの見世物になりたくなかった。

もし女性が固辞でもするなら、こちらは醜態を見せず、さっさと席に戻るつもりだった。

そう思いながら、相手を値踏みする私の目。

見返す女性の瞳が、一瞬揺らいだようだった。

「あ」

女性の唇が動いた。

「…ありがとうございます」

まっとうな声色だった。

私は彼女の声に釣られるように、席を立った。

横に立つ学生を押しのけるようにして、女性の脇にのいた。

その際に、つり革にしがみつく彼女の腕が私の肩にぶつかる。

女性はよろめいて、そのまま抱えたハンドバッグの重みに振り回されるように、直前まで私のいた座席にお尻を落とした。

席を確保して、ハンドバッグを膝の上に抱えた。

近くの通路に立っている私の顔に、視線を走らせる。

口元に弱い笑みを浮かべ、目で感謝の意を示していた。

私は軽く会釈して返した。

 

数分後、私は勤務先の最寄りの駅で電車を降りた。

これから、仕事に行くのはつらい。

でも、あの幸薄そうな黒一色の女性の弱い笑みを思い返すと、自分の苦しみが薄れる。

あのか細い体の彼女にも、これから容赦なく一日の重みが振りかかるのだ。

がんばって、と私は他人に対して祈った。

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