『千鳥足のブタ』
行くあてもない。
それで心細く路上を歩いていると、向こうから人が歩いてくる。
千鳥足というやつだ。
ふらふら、ふらふら。
そんな足取りで、向こうから人が歩いてくる。
しばらくの時をかけて、私とかの人との距離は縮まった。
中年の男性だった。
右手に日本酒の一升瓶をつかみ、飲み口を時折口にあてがい、瓶の底を持ち上げて中の酒を喉の奥に流し込む。
そうしながら、歩いてくるのである。
もう長らく酒にありついていない私は、心底うらやましかった。
男性とすれ違う。
私は横目で、男性の持った一升瓶に、物欲しそうな視線を送った。
酒の入った男性は、赤い顔で私の方を見た。
「なんだにいちゃん、しげしげ見てるな」
確かに、しげしげ見ていた。
私は。
彼の手にした一升瓶を。
「はい、すみません」
私は素直に謝っておく。
「しげしげ見るんじゃねえよ」
男性は私を一喝する。
「失礼だろ」
「すみません」
確かに、昼間から酒を飲みつつ歩いている人のことを、私はぶしつけにしげしげ見すぎた。
「しげしげ見てしまい、すみませんでした」
頭を下げながら、それでもなお、私の脳裏には男性の提げている一升瓶の姿がこびりついている。
「謝るぐらいなら、最初から人様の一升瓶をしげしげ見たりするんじゃねえ」
頭を下げる私をなおも怒鳴りつけて、男性は千鳥足でその場を去った。
一方的に怒鳴られて、私も気持ちが良くない。
むしゃくしゃしながら、それでも行くあてもなく、路上をさまよった。
「くそっ、少しばかりしげしげ見たぐらいで、あんなに怒鳴りつけやがって」
一升瓶を手にして千鳥足でやってきた男性の姿を思い浮かべながら、私は反感を覚えている。
あのようにして、アルコール分に飢えた私に一升瓶を見せつけ、彼は最初から私への嫌がらせを意図していたのではないか?
そんな疑念すら湧いてくる。
「あの野郎…」
アルコール分欲しさによる嫉妬と反感とがあいまって、私は唇を噛んだ。
内心のどろどろした感情を、抑え切れない。
「昼間から他人の前で酒飲む奴なんて、ろくなもんじゃねえ」
思わず、私は吐き捨てるような言葉を吐いていた。
緊張した複数の視線が、私に注がれた。
私ははっとして、顔を上げた。
路上の脇に、テラス席がある。
沿道で営まれている、イタリアンレストランのテラス席だった。
時間はお昼時。
着飾った男女がテラス席に腰掛け、スパゲッティなどのお洒落料理と共に、ワインを楽しんでいたのだ。
彼らは気分よくワインを楽しんでいる折に、私の罵声を耳にしたのだった。
彼らへの中傷と受け取れるような私の言葉であった。
心を傷つけられて、着飾った人々が、悲しげな視線を私に向ける。
私は、焦った。
「いや、違うんです、あなたたちのことを揶揄したのではなくて」
しどろもどろに言う私の言葉は、彼らには届いていないらしい。
同じ色合いの視線を受け続ける。
私は、焦った。
「すみません」
言葉につまり、私はテラス席の人々に、とにかく頭を下げた。
逃げるようにテラス席のある界隈から離れた。
羞恥心と自己嫌悪とで、私はもう気が狂いそうになっている。
何もかも、あの一升瓶を提げた中年男性のせいだ。
あいつがやって来なければ、こんな目には遭わずにすんだ。
「畜生…」
私は唇を噛んだ。
いつも、私ばかりが、酷い目に遭わされるのだ。
不公平だ。
この不公平に、いつも私は煮え湯をのまされている。
「畜生!」
誰も周囲にいないのを確かめてから、私は大声をあげた。
私は歩いている。
手には酒の一升瓶を手にしている。
どこでその一升瓶を手に入れたか、その経緯については記憶にない。
ともかく私は酒を口にして、いい気持ちで歩いていた。
端から見れば、千鳥足というやつだろう。
しかし、そんな幸せも長くは続かない。
いい気持ちで歩いている私を、道の端から、冷ややかな目で見ている人物がいる。
熱い頭を振りながら、私は視線の流れてくる方を見た。
若い女性が、道の端に立っている。
私はこちらを見る彼女の双眸に、視線を据えた。
「何見てるんだい」
おぼつかない舌で、私は相手を脅しにかかった。
「見てません」
女性は冷ややかな声で返した。
「見てたじゃん」
「いや、見てません」
「見せもんじゃないぞ」
「見てないって言ってるだろ、ブタ」
口の悪い女性だ。
私は、驚いた。
「人をしげしげ見たうえ、ブタよばわりかね」
「お前みたいにいやらしく絡んでくる男たちは、みんなブタだよ」
女性は、吐き捨てるような調子で返した。
しかしその調子に、若干の甘えがある。
私は、考えた。
彼女も、つらい過去を抱えているのかもしれない。
そんな他人の古傷をえぐるような真似は、私は避けたかった。
なぜって、私も古傷を持つ身であるので。
何か、彼女に親しみを覚える。
彼女を刺激しないでいたかった。
「では、ブタは去ることにしよう」
私はかろうじて、そう口にした。
「うるせえ、わかってるなら黙ってあっちに行けよ」
女性は低い声で返してくる。
めぐり合わせの不運を呪いながら、ブタと呼ばれた私は彼女の脇を抜けて、道の向こうへ。
もう飲むしかない。
手にした一升瓶の中身を時折口に運びながら、私は道を進んだ。
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