『瞬殺猿姫(3) 猿姫が打ち据える、船着場の髭武将』
猿姫(さるひめ)は殺気立っていた。
周囲から、敵意に満ちた多数の視線を受けている。
こういう状況では、猿姫は殺気立たずにはおれないのだ。
彼女の連れの織田三郎信長(おださぶろうのぶなが)は、心配そうに猿姫の背中を見守っている。
猿姫は、棒術の達人である。
棒術のみが彼女の取り得と言ってもいい。
彼女は幼い頃から棒術にたしなみ、今では達人の域に達している。
その棒術のもとは、彼女の故郷である尾張国の村々に、古くから伝わるものだ。
それは人々からは「棒の手」と呼ばれている。
棒の手は、もともとは純粋な武術ではない。
棒の手は村の祭りの場で、村の若い衆により神前で披露される。
若衆から選ばれた舞手が、神前で棒を使った優美な所作を行う。
武術を模したように、棒の使い手同士が、対になって華麗な動きを見せる。
勇ましい掛け声と共に披露される舞に、観客は魅了されるのだ。
そういうわけで棒の手は武術というよりは、どちらかと言えば芸能の要素の強いものだった。
武士に憧れる猿姫は、そんな棒の手に己の才覚で工夫をこらした。
彼女は神事で披露される芸能を、殺人的な棒術へとつくりかえた。
両手で携えた愛用の棒を構えて、猿姫は周囲の集団をにらみつけていた。
彼女の背後に、織田三郎信長がいる。
三郎は、尾張国の領主である織田家の一族出身である。
故郷を追われ、猿姫と二人でこの木曽川のほとりまで逃げてきた。
彼は現在の状況に怯えきって、猿姫の背中にすがらんばかりの様子だった。
三郎にしても、羽織を結わえる腰の荒縄に大小の刀を挿し、背中には南蛮渡来の鉄砲を背負っている。
それであっても彼は、もともと殺し合いには縁遠い、平和的な貴人なのだ。
猿姫ほど、命のやり取りの場には、慣れていない。
「猿姫殿、穏便に…」
全身に殺意をみなぎらせる猿姫の右肩に、三郎は恐る恐る手を置いた。
「ここで敵をつくっては、後々困ります故…」
「それは、私ではなくこの連中に言ってくれ」
昂ぶった猿姫は、短く、厳しい声を返した。
三郎は慌てて彼女の肩から手を引っ込めた。
小柄な猿姫の体に、彼女よりも背丈のある三郎が萎縮するほどの、強い殺意がこもっている。
三郎と猿姫は今、大勢の人間に囲まれている。
それであってもなお、三郎は自分たちよりも相手側の方を心配せずにはおれなかった。
猿姫が殺す気になれば、敵は死ぬ。
そのことは、先の織田家からの刺客との戦いで、三郎にはわかりきっているのだ。
三郎と猿姫の周囲を、十人を超える荒くれた男たちの集団が、取り囲んでいる。
彼らは木曽川の船着場で渡し舟を操る、船頭たちだ。
それぞれ手に刀、鉈などの武具を持って、三郎たちに襲い掛からんとする勢いでいる。
彼らがまさか自分たちに敵対しようなどとは、ここに来るまで三郎には予測できなかった。
「死ぬ覚悟のある奴からかかってこい」
三郎に背中を見せながら、殺気だった猿姫は船頭たちに恐ろしい声をぶつけていた。
三郎の身がすくんだ。
「猿姫殿、いけません、猿姫殿」
「後ろでうるさいぞ。お主は黙って鉄砲の用意をしろ」
自分に言葉を返してくる猿姫の言葉は、敵方に向けるそれよりも、ずっと優しい。
安堵のあまり、三郎の目から涙が出そうになった。
それほどに、殺気立った猿姫は、表情も声色も恐ろしいのだ。
「私は、織田家の手練れの刺客を五人ばかり血祭りに上げた。貴様らごとき訳は無い」
前に向き直って、猿姫は自分たちを取り囲む船頭の集団に啖呵を切った。
威嚇である。
彼女にしても、殺しは避けたいのだ。
これで相手が怖気づいてくれれば事態は悪化せずに済む、と三郎は期待する。
甘かった。
「戯言を相手にするな。こやつらも織田家の者だ。殺せ」
船頭たちの背後にいる彼らの主が、よく通る声で命じた。
威厳のある、重々しい声だ。
船頭たち、うなずく。
これは駄目だ、と三郎はため息をついた。
悪い方へと事態が向かっていく。
船頭たちの一団が、それぞれの武器を手に、こちらに押し寄せてくる。
そんな気配が渦巻いた瞬間、猿姫は棒を手に前方に飛び出していた。
猿姫は、船頭たちよりも、何倍も早い。
「猿姫殿っ!ここで殺しはいけませぬ」
三郎には、そう叫ぶのがやっとだった。
叫んだときには、すでに猿姫は彼のもとから遠く離れ、船頭の一団の中で愛用の棒を振るっている。
武器を手にした船頭たちを、棒でさんざんに打ち据えている。
「あっ、ああっ…」
事態を見守りながら、三郎は興奮の余り思わず両手を口で覆った。
猿姫は、殺気だった船頭たちが襲いかかってくる、その呼吸の隙をついて飛び込んでいったのだ。
小柄な彼女の背丈に匹敵する長さの棒を、猿姫は存分に振るう。
相手は刀、鉈などの武器を手にした屈強な船頭たちだった。
しかし彼らは、猿姫相手に手も足も出ずに、棒で叩きのめされている。
ある者は足先を払われて転倒する。
ある者は鎖骨を打たれ、痛みの余り、苦悶の表情で打たれた箇所を押さえて屈みこむ。
ある者は下腹部に突きを受け、悶絶してその場に倒れた。
三郎は、猿姫の戦いぶりを見ている。
彼には安心するところがあった。
先に織田家の刺客たちを葬った際には、猿姫は相手を全員皆殺しにしている。
棒による強烈な一撃で、相手方の面々は即死だった。
今回の猿姫は、敵方に対して明らかに手心を加えている。
猿姫殿、優しい…。
猿姫が人を殺す場面を目にしたくなかった三郎である。
救われる思いで、棒を振るって船頭たちの戦意を奪っていく、そんな猿姫の姿に見惚れている。
「三郎殿っ、鉄砲!鉄砲の用意!」
暴れながら、猿姫は三郎の方を見やって怒鳴った。
三郎は我に返る。
猿姫が自分のために命をかけて戦っているのに、自分が呆けている道理はなかった。
三郎は慌てて、背中に背負った鉄砲を下ろし、袋から取り出した。
鉄砲を地面に立てて、銃口の先から専用の器具を使って内部に銃弾と火薬を仕込んだ。
銃身を肩に乗せて、構える。
三郎は腰の荒縄に、各種の薬品を詰めた瓢箪を提げている。
彼はそのうちの一つから、火薬の入ったものを取り外し、内容物を構えた鉄砲の火薬皿に注いだ。
瓢箪を腰に戻す。
今度は、火打ち石を瓢箪の合間に提げた小袋から取り出して、火縄に着火する。
これで、いつでも発射可能な状態にできた。
彼の目前で猿姫は、武装した船頭たち相手に戦っている。
彼女が窮地に陥り次第、問答無用で相手を撃ち殺す。
三郎はそう覚悟した。
人を殺すという緊張の余り、手に汗がにじみ出てくる。
肩に構えた鉄砲の重さも感じられないぐらいだ。
「女子供だと侮ったかもしれんな」
猿姫が船頭たちの大方を戦闘不能に追い込んだ頃、敵方の後ろに構えていた人物が言った。
船頭たちが動きを止める。
釣られて、猿姫も棒を振るう手を休めた。
その人物が、前に歩んでくる。
三郎と猿姫は、息を飲んで相手の出方を見守った。
大きな男だった。
目は大きくて、気迫がある。
その鼻下から顎にかけて、一体となった髭が伸びて顔の大部分を覆っていた。
立派な髭である。
三郎は胸の内で、彼に髭武将というあだ名をつけた。
「斎藤家家臣、蜂須賀阿波守である」
男は威厳のある声で名乗りを上げる。
船頭たちは、その場から一歩退いて阿波守に道を譲った。
阿波守は、猿姫の目前に出てくる。
粗末な装いの船頭たちと違い、阿波守は正装し、大小二本の刀を腰に挿している。
れっきとした武士なのである。
斎藤家は織田家の支配する尾張国の北に隣接する、美濃国の支配者である。
蜂須賀阿波守(はちすかあわのかみ)は、その斎藤家の家臣として、この船着場を管理している武将のようだ。
「ここいらの船頭たちに、斎藤家の息がかかっているとは知らなかった」
阿波守を見据えながら、直前まで暴れていた猿姫は、荒い息の下で言った。
「そうだろう。木曽川は、貴様ら織田家の者には渡さん」
阿波守は猿姫相手に息巻く。
三郎は慌てた。
「待って下され、阿波守殿。我らは織田家とはもはや何の関係もござらん」
必死に声をあげた。
鉄砲を構えながら叫ぶ三郎を、阿波守は一瞥する。
「織田家の嫡男、三郎信長だな。何の用で木曽川を越えようというのか知らんが」
腰に挿した刀の柄に、その大きな手をやり、抜き放った。
宙に刀身を晒した。
長い刀である。
「斎藤家の敵には、ここで死んでもらう」
刀を両手で構え、目前の猿姫に視線を据えている。
猿姫は棒を構え直した。
「船頭連中に比べれば、やり合い甲斐のある相手らしいな」
三郎の目前で、猿姫はつぶやく。
その声の響きに、密かな悦びが混じっているのに三郎は敏感だった。
「猿姫殿、いけません」
静止する三郎の声も虚しい。
猿姫と蜂須賀阿波守とはお互いの得物を振るってぶつかりあった。
相手方の刀をかいくぐった猿姫の棒が、阿波守を袈裟懸けに打ち据えた。
傍観している三郎が悲鳴をあげたくなるほどの、激しい強打であった。
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