『瞬殺猿姫(5) 白子港で、戸惑う猿姫』

船尾を岸壁に繋いだ後も、船はぐらぐらと揺れている。

「三郎殿、着いたぞ」

船板に腰掛けたまま、すやすやと寝入っている織田三郎信長(おださぶろうのぶなが)。

猿姫(さるひめ)は彼の体の上に屈みこんで、揺さぶった。

「着いたのでござるか」

三郎は、半分眠ったままの顔で猿姫を見上げ、問いかける。

「着いた。白子港に着いた」

猿姫は、誇らしげにうなずいた。

小さな渡し船で海を渡り、無事に目的の港に漕ぎ付けたのだ。

日は暮れかけている。

海上で見通しの効かない夜になる前に、たどり着けたのは幸運だった。

「猿姫殿、お見事」

「うむ」

「猿姫殿のお田植え歌を聞きながらの船旅、拙者には極楽でござった…」

まだ眠そうな顔ながら、三郎は笑顔でささやいた。

実感のこもった口ぶりに、猿姫は苦笑する。

「それは。何にしろ、お主が船酔いしなくてよかった」

「なんの、船酔いなど。貴殿は船の扱いも歌も、とてもお上手で…」

「褒めてもらっても何も出せないぞ」

三郎は真顔で人を褒めるので、たちが悪い。

面映い気持ちになる。

そう思って淡く赤面しながら、猿姫は船底に転がっている男に視線を移した。

蜂須賀阿波守(はちすかあわのかみ)である。

後ろ手に縛られて転がされながら、彼も寝入っている様子だ。

「おい髭面、起きろ」

一転して声の調子を変えた猿姫は、つま先で阿波守の腰を軽く蹴った。

阿波守、うめき声をあげる。

「白子の港に着いた。貴様も起きろ」

厳しい声を浴びて、男は薄く目を開けた。

「…着いたか」

「そうだ。貴様はさんざん私を不吉だの何だのと言ってくれたが、見ろ。ちゃんと着いたぞ」

男の髭面を見下ろして、猿姫はにらんだ。

「お主は不吉の塊だったが、お主の田植え歌がそれ以上によかった。そういうことだ」

阿波守は何だかわからない答えを返してくる。

不意のことで、呆気に取られた。

これはまさかこの男にも褒められているのだろうか、と猿姫は困惑した。

破れかぶれで歌ったものの、自分の歌い声は満更でもなかったらしい。

三郎だけでなく人質の男にまで賞賛され、猿姫は複雑な気持ちになって黙り込んだ。

 

すでに、彼らの船はもやい綱で港の岸壁に繋ぎ留められている。

海の方に目を移せば、大型の商船が何隻か、沖合いで停泊している。

各大型船から、それぞれ小さなはしけを使って積荷を港に運んでいた。

港では猿姫たちの船に並んでそれらのはしけが繋がれて、波に揺れている。

はしけの上と岸壁の上とで、男たちが荷物の受け渡しをしている。

港に隣接して、大きな蔵が並んでいた。

積荷をそこに運び込むのだろう。

「なかなか、活気のある港でござるな」

三郎はまだ眠そうな顔で感想を言った。

「私たちも降りよう。港の人間を待たせている」

猿姫は三郎と阿波守に声をかけて、視線を港の一方にやった。

岸壁の端に、番小屋がある。

その前で、港の役人が待っている。

猿姫は三郎と阿波守を船から岸壁の上に飛び移らせ、最後に自分も降りた。

 

「あなた方は沖合いから、こんな小船でやって来て」

港の役人は、興奮気味に語った。

「しかも船頭があなたのような若い女子だったもので、驚きましたぞ」

番小屋の前で立ったまま、一行は港の役人から取調べを受けている。

「そのうえ皆様、なかなか変わった御風体で」

役人は遠慮がちに言った。

猿姫は、娘らしくない羽織に短い股引、ごてごてとした厚い脚絆の装い。

背中に自分の背丈ほどもある長さの棒を背負っている。

三郎のは、描写が難しい。

口には出せないような猥褻な絵柄が上品な刺繍で描かれた、上等な羽織。

そんなものをだらしなく羽織り、荒縄で結わえている。

その荒縄には大小の刀に加え数多くの瓢箪をぶら下げていた。

なお背中には珍しい、南蛮渡来の鉄砲を背負っている。

三人目の阿波守はまっとうな武士のようでありながら、鼻の下から顎にかけて異常な髭の量。

しかも、手首を後ろ手に縛られている。

「氏名と素性をお知らせ願いましょうか」

気を取り直した役人の武士は、両手に帳面と筆を手にして迫った。

猿姫は、三郎と顔を見合わせた。

二人で未知の土地に来て、どう振舞うべきかの算段が難しい。

先のことを考えると、本当の名を名乗るべきなのか、偽の名前を名乗るべきなのか。

だがこの白子を含む伊勢の地は、二人の敵である織田家の勢力圏の外にある。

間者が潜んでいるおそれは否定できないが、その疑いは強くない。

あえて偽名を名乗ることもないだろう、と二人は判断した。

そうなると、三郎は元気である。

「織田三郎信長でござる」

三郎は、無邪気な笑顔を浮かべて、役人に右手を差し出した。

握手を求めているのだ。

役人の両手は道具でふさがっている。

相手は困惑した顔を見せた。

「なんですかそれは」

「南蛮では、こういう挨拶をいたす」

三郎は嬉々として語った。

「そうですか、それは存じなかった。あいにく、私はまだ南蛮からの入港者に会ったことがありませぬでな」

役人はそつなく受け答える。

手を差し出している三郎に構わず、記帳を始めた。

三郎、手を引っ込める。

「…しかし、貴殿は。織田三郎信長殿と仰せで。…もしや、尾張の織田家の方でありますか」

「いかにも」

三郎は胸を張った。

彼は、尾張国を支配する織田弾正忠信勝(おだだんじょうのじょうのぶかつ)の兄に当たる。

弟に当主の座を奪われ、今や追われる身なのである。

「とすると、あなたは」

うなずいた後、役人は、猿姫に視線を移した。

その目に、若干の好奇の色が宿っている。

「名は猿姫だ」

猿姫は努めて冷静に答えた。

「猿姫殿」

「そうだ」

「織田様のご家族でいらっしゃるかな?」

猿姫は答えに躊躇した。

自分は武芸者の端くれではあるが、誇る出自は持っていない。

尾張の百姓の出だ。

そうである以上、余計なことは主張せずに。

ここは三郎の家族になっておいた方が聞こえがいいのかもしれない。

「私は、三郎殿とは」

「彼女は、拙者の武芸の師匠でござる」

横から三郎が言葉を挟んだ。

誇らしげな声である。

猿姫は、胸を打たれた。

 

そうだ、私は三郎殿の武芸の師匠だ。

 

三郎の言葉を聞いて、猿姫は自分が何者か、定まったような思いがした。

役人はさして気にも留めず、猿姫の思いをよそにうなずいて記帳するのみである。

今度は、阿波守の髭面を胡散臭そうに見ている。

猿姫は、今度は焦った。

彼女が戦いで打ち据えた挙句、人質として拉致してきた阿波守だ。

この取調べを前にして、口止めもしていないし、何の脅しもかけていない。

ここで何を口にされるものかわからない。

「あなたは…」

「織田家臣、蜂須賀阿波守でござる」

阿波守は、よく通る声で言った。

真っ直ぐに役人の顔を見据えている。

役人は、うなずいて記帳した。

猿姫と三郎は、困惑交じりの引きつった顔を、お互い見合わせた。

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