『瞬殺猿姫(6) 猿姫と三郎、下克上を提案される』
すでに、日は落ちている。
座敷の隅では、燭台の上のろうそくに火が灯っている。
一行は、ろうそく明かりに照らされた座敷で車座になって、議論している。
猿姫(さるひめ)と織田三郎信長(おださぶろうのぶなが)。
そして蜂須賀阿波守(はちすかあわのかみ)。
彼らは港に程近い白子の宿場に、宿を取ったのだ。
伊勢街道に面した宿の、二階の部屋にいる。
「神戸家に挨拶しておこう」
と猿姫。
「いや、伊勢に長居せぬ以上それは余計なことでござる。それに、神戸家に変な借りをつくることになろう」
と三郎。
神戸(かんべ)というのは伊勢国の北部に地盤を持つ、有力な武家である。
白子港と宿場を含む一帯に、影響力を持っていた。
「神戸家に仕官いたせ」
と阿波守。
猿姫と三郎は、同時に阿波守の髭面をにらんだ。
阿波守は、にらまれても平気な顔をして見返している。
白子港で役人に対し、織田家臣を名乗った阿波守である。
だが、猿姫も三郎も、いまだ彼の真意を測りかねていた。
そのため、人目はあるが、手首を縛る縄は解いてやっていない。
「無茶なことをおっしゃるな。拙者らは、堺に行くのでござる」
三郎は阿波守相手に力説した。
「そうだ。私は神戸家に、挨拶はしておいた方がいいと思う。何かと便利だろうから。でも私や三郎殿が仕官するほど、見込みのある武家ではない」
三郎の言葉を継いだ猿姫は、阿波守を見据えて言った。
「お主らの事情はよく知らんが、尾張を取り返すつもりなら、この界隈は手頃ではないのか」
阿波守は、長いあご髭を指先で弄びながら、三郎と猿姫の顔をねめつけた。
いつの間にか、彼の手首を縛っていた縄がほどけて、畳の上に落ちている。
「貴様、いつの間に」
阿波守の手が自由になっているのを見て、猿姫は目尻を吊り上げた。
腰を浮かせた。
傍らに置いていた愛用の棒を、すでに両手に構えている。
「静かにせんか、こんな縄ぐらいのことで。暴れたら、宿を追い出されるぞ」
そう言って阿波守はあぐらをかいたまま、微動だにしない。
木曽川のほとりで猿姫に敗れ、重傷を負った阿波守である。
しかし、その名残りはふてぶてしい表情からは読み取れない。
猿姫が縛った縄も、隙を見て解いてしまったらしい。
油断のできない男だった。
猿姫は中腰のまま、棒を構えて相手をにらみつける。
三郎は猿姫に目配せした。
だが殺気立った猿姫は、三郎の方を見ようともしない。
仕方なく、三郎は横から猿姫の羽織の袖をつかんで彼女の注意を引いた。
「猿姫殿、お待ちくだされ」
「待てない。こいつ、ここで叩き殺そう」
「お気を確かに。今、阿波守殿は面白いことを言いかけた。ひとまずうかがいましょう」
三郎の落ち着いた声だった。
そういう風に諭されると、猿姫は言葉がない。
ため息をついた。
「髭面、貴様、三郎殿のおかげで命拾いしたな」
その場に力なく腰を落とし、座り込んだ。
「阿波守殿、この界隈は手頃、とはどういう意味でござる」
三郎は改めて阿波守に尋ねた。
「どういう意味、などと考えなくとも知れているではないか」
阿波守は、顔を斜めにして三郎を見る。
港で三郎の家臣を名乗ったにしては、挑戦的な態度である。
「港がある。栄えている。ここを根城にすれば、何かと資金を貯めるのに都合がよかろう」
「しかし、堺の港は白子の比ではありませんが。堺に行けば…」
「堺よりも、地の利に優れていると思わんか?こちらの方が。今後、尾張に攻め込むことを考えるならな」
阿波守は淡々と答えた。
三郎は、言葉につまった。
尾張国は、三郎の弟である織田弾正忠信勝(おさだんじょうのじょうのぶかつ)が支配している。
当主の座をこの弟に奪われた三郎は、弟を暗殺しようと試みて失敗した。
猿姫と共に故郷を追われ、今や放浪の旅の身の上なのである。
三郎の反応を見て、阿波守は猿姫に視線を移している。
「棒の女。お主、神戸家は仕官するほどの見込みがないと言ったな」
棒の女呼ばわりに、猿姫は顔をしかめた。
「それはそう言ったが、棒の女呼ばわりはよせ。私の名は猿姫だ」
「なら猿姫。見込みがないからいいとは思わんか」
今度は呼び捨てである。
猿姫は、ますます表情を厳しくする。
「何が言いたいのだ、髭面。まさか貴様、下克上のことを言っているのか」
猿姫は相手をにらみつけながら、深い考えもなしに問うた。
家臣が実力で、力の無い主の実権を奪い、自分が主に取って代わる。
それが下克上である。
「そうだ。それだけわかるなら、棒の女の猿姫にしては上出来だな」
嘲るとも褒めるとも取れる阿波守の口ぶりである。
再び、猿姫は脇に置いた棒に手を伸ばしかけた。
「猿姫殿。落ち着いてくだされ。阿波守殿はまだ話の途中でござる」
横から、三郎が呆れた声をあげる。
「だって、この髭面がさっきから…」
猿姫は思わず三郎に訴えようとして、止めた。
自分が情けなくなった。
「続けろ」
阿波守をにらみつけて、乱暴にうながした。
阿波守は何事もなかったかのような平気な顔で、うなずいている。
「つまりだ。見込みのない程度の武家だから、入り込んで乗っ取りやすい」
「そうかな」
「おい、うつけ、お主は少なくとも織田家の嫡男であろう。神戸家には歓迎されるかもしれんぞ」
今度はうつけ呼ばわりされた三郎が苦笑する。
猿姫は、三郎の代わりに阿波守をにらみつけた。
「貴様、港で三郎殿の家臣を名乗ったくせに。家臣ならもう少しまともな口の利き方はできないのか」
「あれは、あの場をごまかすための、単なる口上だ」
阿波守はとぼけた顔で、ぬけぬけと言い放った。
「俺は斎藤家の家臣である。今後は斎藤家からの目付けとして、お主らに同行させてもらおう」
「何が目付けだ、ふざけるな」
我慢できなくなった猿姫は、前のめりになって、阿波守を怒鳴りつけた。
「貴様はただの人質だ、人質らしくおとなしくしてろ」
怒鳴られても阿波守は動じない。
そんな平常心を失わない阿波守のたたずまいを端から見て、三郎はどこか感心したような表情でいる。
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