『瞬殺猿姫(32) 二重櫓の猿姫たち三人』
伊勢は白子の宿場に近い、神戸城の二の丸に建つ、二重櫓の二階。
猿姫(さるひめ)がいて、のぞき窓から遠く亀山城のある方角を眺めている。
しかし日は暮れて、遠方には闇が降りている。
わずかに、城内の各所で燃えるかがり火が、下から夜空を照らすばかりだ。
眼下の二の丸には、武装した城兵たちの気配が満ちている。
猿姫はきびすを返し、櫓の内側に視線を戻した。
手の上で、他人の財布をお手玉のように宙に放り投げては、遊んでいる。
忍びの女、一子(かずこ)から奪った財布だ。
相手の正体を白状させるために質として取ったものだ。
「猿姫殿、人様の財布を玩具にしては、罰が当たりますぞ」
横から、若い男の声がかかった。
織田三郎信長(おださぶろうのぶなが)である。
灯された蝋燭の明かりに照らされて、彼の異様な姿が暗い櫓内に浮かび上がっている。
痩せて、背が高い男である。
見るのも下品な、猥褻な絵柄の羽織をまとい、下は褌だけで脚が露わ。
足先に草履を引っ掛けている。
腰に帯代わりの荒縄を巻いて羽織を結わえ、ついでに大小の刀二本を挿している。
さらに、数多くの瓢箪をその荒縄からぶら提げていた。
そんな格好をしたうつけに言われたくない、とは猿姫は言わない。
最近、そのふざけた外見に相違して、三郎が生真面目な若者だということがわかり始めていた。
「だって、腹が立つんだ」
猿姫は率直に答えた。
しばらく前に、本丸御殿の客間にいて、猿姫は忍びの襲撃を受けた。
一子から奪った財布を取り返しに来た、彼女の仲間の仕業だ。
その折に猿姫は薬を嗅がされて意識を失っている。
現場にいた三郎の頑張りがなければ、猿姫はどんな目に遭わされていたかわからない。
三郎に借りが出来ていた。
一方、財布の持ち主である一子には、貸しができた。
一子の主の名を教えれば、財布を返す約束をしていたのだ。
その約束を無視して、一子は刺客を差し向けてきた。
「猿姫殿、その財布、一刻も早く一子殿にお返ししましょう」
壁際に座り込んだ猿姫に、頭上から三郎は話し続ける。
「嫌だ」
猿姫は財布を自分の懐に戻した。
「あの女が直々に謝りにでも来ない限り、返さない」
「そうは言っても、もともと財布を奪ったのは猿姫殿でござろう?」
「絶対返さない」
猿姫は、かぶりを振った。
一子に対しては、不幸な出会いとは言え、若干の親しみを覚え始めていたところだった。
それを、裏切られたような気がしたのだ。
眉間に皺が寄る。
考え込むと子猿じみた顔になる彼女の顔を見下ろして、三郎は苦笑していた。
階下で、板張りの床をきしませる足音がする。
次いで二人がいる部屋の隅で、床の端にたてかけてある梯子を、誰かが上ってくる気配がした。
濃い髭面の男が顔をのぞかせた。
美濃国の大名である斎藤氏の家臣、蜂須賀阿波守(はちすかあわのかみ)である。
成り行きで同行させて以来、彼の顔と態度に猿姫はいつもいらだちを覚えている。
阿波守の方でも、やたらと猿姫をからかうのだ。
いけすかない男なのである。
もっとも猿姫は、阿波守との初対面時に、彼を愛用の棒でさんざんに打ち据えた末に人質にしている。
恨まれても仕方のない道理ではある。
「それにしても、貴様の顔を見る度にむさ苦し…」
背中に袋を担いで近づいてくる阿波守を相手に、猿姫は文句を言いかけた。
「何か言ったか?」
首をかしげながら、阿波守は袋を猿姫と三郎の座っている前に降ろした。
重い音。
袋の中に、いくつも物が入っている。
「これはなんでござる」
同じくその場に座った阿波守に、三郎は尋ねた。
「夕餉に食えと言われた」
阿波守は、袋の口をまくった。
中に、ごろごろとした塊が無数に入っていた。
「夕餉?これを?」
三郎は目を丸くしている。
塊を一つ、手に取った。
黄色くて、表面の粉っぽい、四角の塊だ。
とても固いものである。
こすると、かろうじて表面の粉がぼろぼろとはがれ落ちる。
「土壁を強く固めたような物でござるな」
三郎はうなった。
「神戸下総守殿は、我々の夕餉に土壁を食べろとおっしゃるのか」
「土壁ではないぞ。南蛮の菓子だと言っておった」
阿波守自身も、自分の言葉に自信が持てないようであった。
しかし三郎は顔色を変える。
「え、これが南蛮の菓子でござるか」
手の中の塊を、目の前に近づけた。
三郎は、南蛮渡来の物に目がない。
今も、南蛮商人から手に入れた鉄砲なる武具を持ち歩いているぐらいだ。
「しかし固くて、なかなか歯が通りませんな…」
手にした南蛮菓子に前歯を立てようと何度か試み、三郎は止めた。
「拙者が南蛮の文物を好む故にこれをくださったのでござろうか」
「これなら毒を仕込むのも難しいから客人に食わせるにはうってつけ、なのだそうだ」
阿波守は三郎を見てから意味ありげに、猿姫の方を顎でしゃくってみせる。
猿姫は、彼らに目線を合わせない。
あぐらをかいた膝に頬杖を突きながら、ため息をついた。
一度は食事に眠り薬を仕込まれ、今度は土壁のような固い南蛮菓子を食べさせられるのだ。
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