『瞬殺猿姫(11) 神戸城、首の心配する猿姫』
北伊勢の神戸城を本拠とする武家、神戸家。
猿姫(さるひめ)一行は、現当主である下総守利盛(しもうさのかみとしもり)を訪ねてやって来た。
神戸家は、同じく北伊勢の亀山に本拠を置く武家、関家の支流にあたる家柄である。
もっとも、家柄としては関家の支流でも、血筋は別であった。
利盛の祖父にあたる具盛(とももり)は、南伊勢の名家、北畠家から。
養子として入り、神戸家に迎えられている。
つまり神戸家は、関家とは別に、北畠家にも繋がっている。
本家にあたる関家に従いつつも、南の北畠家とも連絡を取り合う。
血筋で繋がる北畠家の後ろ盾があるため、本家の関家とも対等に渡り合える。
逆に北畠家との仲が疎遠になれば、関家との関係を強める。
そうした外交方針で、群雄割拠の伊勢国にあって、長年独立した地位を保ってきたのだ。
だがその地位も、近年の複雑化する時勢の中で、危うくなりつつあった。
「そういうわけでござる」
猿姫一行は神戸城の本丸にある御殿の、当主の間に通されている。
三人は、上座に面して座っていた。
筆頭に織田三郎信長(おださぶろうのぶなが)。
彼の背後、左手に猿姫。
背後右手に蜂須賀阿波守(はちすかあわのかみ)。
当主が現れるのを待つ間、三郎は上体で猿姫の方を振り返り、神戸家の来歴を語っている。
すぐ近く、上座の脇に神戸下総守の小姓が待機しているので、小声である。
「神戸家は、桓武平氏の末裔、関家に連なるお家柄。その実、名族北畠家の血族でもござる」
「なるほどな」
口で納得しながらも、知識のない猿姫にはいまいち飲み込めない話なのだった。
松下家は、「東海一の弓取り」と称される駿河国の大大名、今川家の家臣である。
それなので猿姫によくわかるのは今川家と、せいぜい故郷である尾張国の領主、織田家。
彼らの内情くらいだ。
神戸家のことは、たかが北伊勢の小領主、ぐらいにしか思っていない。
「三郎殿は武家の家柄に詳しくて、さすがだな」
関心の無さを隠そうと、お世辞を言うのが精一杯だ。
神戸家について熱く語る三郎を前にして、その関心の無さが、声に出てしまった。
「猿姫殿っ、なぜもっと面白そうに聞いてくださらぬ」
体ごと猿姫の方に向き直って、三郎は食いつかんばかりだ。
無表情な小姓が、ちらりと視線を向ける。
「うつけ、無駄なことはやめておけ。猿姫に武家の来歴など理解できるわけがなかろう」
猿姫の横から、阿波守が嘲る調子でたしなめた。
「それを徒労と言う」
猿姫はむっとして、阿波守の髭面を横目でにらみつける。
だがさすがに、ここで暴れるわけにはいかなかった。
敵になるか味方になるかもわからない、領主の城である。
だいたいが、この主の間に入るにあたって、一行は武具を奪われている。
猿姫は、常に持ち歩いていた愛用の棒が手元にないせいで、少し具合が悪かった。
棒を携帯していないと、不安で仕方が無い。
そのせいもあり、場違いな程に上機嫌な三郎の話が、うまく頭に入らないのだ。
不快な阿波守の髭面から、自分を見つめる三郎の顔に視線を戻した。
「しかしそれほど神戸家に由緒があるのなら、三郎殿」
猿姫は、眉をひそめる。
「今まで再三言わせてもらったが、その羽織。大丈夫なのか?」
三郎の羽織。
上等な絹に、丁寧な刺繍で、口に出すのもはばかられる絵柄が描かれている。
猿姫はもう見慣れてしまったが、並の人間ならその下品さに驚くだろう。
「先ほど、応対に当たった門番と、取次ぎの侍。お主のその羽織を凝視していた」
猿姫は、近くに居る小姓に聞こえないよう、小声でかつ遠慮がちに言った。
「で、ござるか。それは気付きませなんだ」
三郎は平気な声で言って、前に向き直った。
猿姫はため息をついた。
前を向いた三郎の背中にも、下品な絵柄がふんだんにあって、猿姫の視界に入ってくる。
こんな下品な羽織を着た男に同行している、自分だって。
うつけの女、恥知らずな女と人様からは思われているかもしれない。
他人の目を意識しないたちの猿姫も、三郎の羽織のことを思うと、気がふさぐ。
三郎のうつけぶりが、神戸下総守を刺激しないことを切に願った。
怒りを買えば、得物の棒を持たない自分が場を乗り切れるかどうか、わからない。
「貴殿、どう思われる。拙者のこの羽織」
いつの間にか三郎は、待機する小姓に話しかけていた。
気楽な口調である。
猿姫も阿波守もふいをつかれ、一瞬腰を浮かせた。
「どうであろう、下総守殿は気に入られますかな。この手の絵柄は」
話しかけられて、若い小姓は目を白黒させている。
「さ、どうでござりましょう」
「下総守殿はお若い方だとうかがっております。拙者とご趣味も近いのではないかな」
「さ、それは私には何とも…」
困っている小姓に、三郎は楽しそうな声で、にじり寄らんばかりだ。
腰の周りに提げたいくつもの瓢箪が、ぶつかりあって音をたてる。
「三郎殿っ」
後ろから抱きついて、猿姫は三郎を元の座り位置に戻らせた。
「他家の殿中だぞ。落ち着け」
「拙者は落ち着いてござる。猿姫殿こそ、そんな青い顔で…貴殿らしくもない」
後ろから取りすがる猿姫を振り返り、三郎は顔に笑みを浮かべている。
「せっかくのお化粧が、無駄になり申す」
余裕を感じさせる笑みだ。
猿姫ははっとして、後ろに退いた。
三郎には考えがあるのかないのか、その胸中がわからない。
しかし、いよいよ神戸下総守との謁見となれば、どうであれ三郎に任せるしかないのだ。
三郎と共に首を失う覚悟はしておいた方がいいかもしれない。
猿姫はそう思った。
ことと次第によっては、城内に忍び込んでいる一子(かずこ)を当てにするほかない。
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