『瞬殺猿姫(54) 波間での危機、猿姫一行』
「北畠殿に謁見するには、どういう手はずを取ればよろしいのか」
織田三郎信長(おださぶろうのぶなが)が、訊ねている。
聞いているのは、佐脇与五郎(さわきよごろう)。
与五郎は北伊勢の大名、神戸下総守利盛(かんべしもうさのかみとしもり)の配下の武士であった。
波の音が邪魔をする。
船の上で、風を頬に受けている。
「このまま沿岸を行き、安濃津で港入りいたしましょう。安濃津の市中で北畠氏の使者と落ち合う約束になっています」
「でござるか」
三郎はうなずいた。
「髭殿にしばらくは漕ぎ続けてもらって、我々は当分体を休めそうですな」
「誰か替わっても罰は当たらんのだぞ」
船尾に立って櫂を使っているのは、蜂須賀阿波守(はちすかあわのかみ)。
木曽川流域で渡し場を支配する川並衆の出身で、渡し舟を漕げるからと、今も海上で船を漕がされている。
「猿姫の奴はまだ眠っておるのか」
うんざりした調子で、阿波守は声をあげた。
船底に、小柄な若い女が横たわっている。
猿姫(さるひめ)である。
編み笠を顔の上に乗せて、寝息をたてている。
眠りながらも、体の上に愛用の棒を乗せて、腕を絡みつかせていた。
「大怪我をしていますからな。船頭を替わるなんてことはもってのほか」
「わかっている」
今朝、面々が集まった街道筋の茶店で刺客に襲われ、猿姫は重傷を負っている。
猿姫を気にかける三郎は、彼女をできるだけ長く船底で休ませておきたい、と思っている。
猿姫の寝姿に視線を落とし見守る三郎。
その間に、彼の向かいに座る与五郎と阿波守は、岸辺の方に気を取られていた。
「あの連中」
阿波守が小声を漏らす。
三郎も気付いて、岸辺に目をやった。
岸辺に続く草原に、複数の人影がある。
ばらばらと散らばって、こちらの方を向いていた。
船の進みに連れて、岸辺の連中もそれぞれ歩いてついてくる。
「どういう装束をしている」
「武士ですな」
阿波守の問いに、与五郎が応じた。
二人共、声が切迫している。
「槍、弓を携帯している者もいます」
「うつけ、伏せた方がいいぞ」
阿波守に言われ、三郎は慌てて船底へ。
横たわった猿姫の脇に、腹這いになった。
「…どうした」
三郎の頭の真横で、猿姫のささやき声がした。
船上の慌しい空気で目を覚ましたらしい。
「また刺客のようです」
怪我人の猿姫を寝かせたままにしておけないことを、三郎は歯がゆく思う。
「岸辺に多勢の武士が待ち構えて、こちらを追尾する気配」
猿姫に説明しながら、三郎は持参の袋をたぐりよせ、中から火縄銃を取り出している。
「そう言えばうつけ、貴様いいものを持っていたな」
阿波守は三郎の準備のよさに感心している。
その顔が再び岸辺を見て、強張った。
「伏せろ」
三郎と猿姫の上から、与五郎の重い体がおおいかぶさってきた。
直後、頭上を切る鋭い音。
船の向こう側の波間に、水音が鳴った。
「矢を放ってきた」
船尾に立つ阿波守は、櫂を胸元に引き寄せ、己の重心を低くしている。
「まだ頭を上げるな、三々五々来る」
断続的に、水の散る音が船の近辺で起こった。
何本かの矢が、三郎たちの頭上を飛び越える。
「阿波守殿」
「案ずるな、さっきから俺はよけている」
阿波守は怒鳴り返した。
船はわずかに波で揺れるばかりで、その進みを止めている。
帆を持たない小船は、櫂で漕がない限り、波の流れに従うばかりだ。
「それよりうつけ、貴様の大層な一品はどうなっている」
「撃つためには諸々の備えを要します、火種の用意など」
「お前はその用意をしておったか」
「よもやここで刺客に襲われるとは」
「では撃てんのか」
「火種さえあれば何とかなるのですが」
阿波守は渋い顔になった。
この小船の上に、火を熾す設備は無い。
「沖合いに逃げるほかあるまい」
阿波守は荒い鼻息を吹いた。
身を起こし、再び櫂を引いた。
「伏せておれ」
そう言うなり、全身を大きくひねって、櫂を後方へ突き出した。
船は突如、鋭く前進する。
阿波守は動きを止めず、再び体を逆向きにひねって、引き寄せた櫂をさらに後方へ。
引き寄せ、体をひねり、後方へ。
阿波守の動きに合わせて、船は小刻みに波間を進んだ。
陸地を避けて、沖合いへ。
その間にも、岸辺の武士たちから放たれる矢が飛んできた。
そのうちの何本かは、船頭の阿波守を狙っている。
櫂を操ることに全身を用いている阿波守は、矢をよけることができない。
何本かの矢が阿波守の体すれすれを飛んでいき、衣服の端を裂いた。
血が散って、潮風に乗って三郎たちの上に届いた。
沖合いに船は停滞している。
陸地から、矢が届かない距離を保っている。
阿波守は櫂を船の縁に預け、船尾に座り込んでいた。
体の端々を矢先に割かれ、衣服に血がにじんでいる。
「大事ないか」
猿姫が声をかけた。
猿姫、三郎、与五郎は船底の狭い中で猫の子のようにお互いの体を接している。
誰も矢を受けることなく済んだ。
「大事はない」
猿姫に目をやって応える阿波守は、言葉とは裏腹に息が荒かった。
「何物だあいつら」
憎々しげな声である。
「あの人数で、武具も携えている。近辺の武士としか思えん」
「どういうことです」
「朝方の連中はともかく、今のは織田家の刺客などではあるまい」
「土地の大名の配下ですか」
言ってから、三郎は身をよじって傍らにいる与五郎の顔を見た。
「与五郎殿、この界隈の陸地は、北畠家の支配地では」
「そうとも言えません」
与五郎の返答は、歯切れが悪い。
「伊勢は諸家が乱立している土地柄。この界隈は北畠家か六角家ないしは関家、それぞれに与する武家が入り混じっておりますので…」
「それにしても、何ゆえ我らを襲うのだ」
苦い顔で問うた。
「我らが北畠の元に向かっていること、敵方が知っているのか」
「六角家か関家にことが漏れているおそれはあります」
与五郎は船底に横たわったまま答えた。
猿姫は、三郎と与五郎の間に挟まって、居心地悪そうに過ごしている。
新品価格 |