『瞬殺猿姫(35) 二重櫓を脱する、猿姫の胸の内』

急がないと、と猿姫(さるひめ)は思った。

いまだ織田三郎信長(おださぶろうのぶなが)は格子窓に食いついて、外で繰り広げられる戦に見入っている。

傍らでは、すでに蜂須賀阿波守(はちすかあわのかみ)が窓から離れ、身支度を整えていた。

先に城主神戸氏から受け取った、石のように硬い南蛮菓子の詰まった袋がある。

その重い袋を、阿波守は背中に担いだ。

「三郎殿、行こう」

そんな阿波守の姿を視界の端に確認して、猿姫は三郎をうながした。

早く脱出しなくてはいけない。

三郎はうなずきながら、依然窓の外を見ているのだった。

その場に足が根を生やしたようだ。

猿姫には、彼の気持ちがわかる。

この城を捨てて逃げるか、城に留まって攻め手と戦うか。

どちらの道を選んでも、何か大きなものを失うことになる。

これから失うもののことを考え過ぎると、人は何も選ぶことができなくなってしまうのだ。

今の三郎がそういう状態なのである。

猿姫は、胸に息を吸い込んだ。

もう、言いたくないことを言わなければならない。

「三郎殿」

「ええ」

と、三郎は生返事。

「本当に、もう行かなくては」

猿姫は切羽詰って、訴えた。

すでに阿波守は、梯子にたどりついている。

袋を担いだまま、器用に後ろ向きに梯子を降りて行く。

二人で、すぐにでも彼の後を追わなくてはいけない。

猿姫の言葉を受けて、三郎はうなずいた。

いまだ迷う気配である。

けれども、二人を置いて阿波守が一人、二重櫓を離れようとしているのだ。

そのことに、三郎も気を急かされたらしい。

ようやく格子窓から離れ、猿姫の方を振り返った。

依然、不安げなたたずまいのままではある。

「…阿波守殿は、お一人で先を急がれますな」

「ああ」

猿姫は三郎の言葉を受けながら、後ろを振り返った。

阿波守はすでに階下に降りたらしく、二階にいる猿姫たちからはもう彼の姿は確認できない。

「あれは、自分のことしか考えていない男だからな」

猿姫は、三郎に短く答えた。

ただ口ではそう言いながら、今回ばかりは内心、猿姫にも阿波守を非難する気はない。

二の丸の外では、神戸氏の兵たちが関氏の兵たちに一方的な攻撃を受けて壊滅寸前である。

この切羽詰った局面では、いかに自分の一瞬の判断で動けるかが肝要だ。

阿波守を木曽川の渡し場で拉致して以来、猿姫は阿波守のことを見下し、嫌ってきた。

だが戦の気配が身近に迫ってもなお迷い無く動くことのできる彼の姿に、今は内心尊敬の念を覚えている。

三郎にも猿姫自身にも戦の経験はなく、二人は少なからず平常心を失っているのだ。

彼らとは違い、阿波守はたとえ性根はひねくれていても、諸々の経験を積んだ年上の男だ。

憎たらしいが、彼から見習えることはあるかもしれない。

そう、猿姫は素直に認めたのだった。

「拙者もいずれは、阿波守殿のようになりたいものです」

猿姫の心を読んだように、歩き始めながら三郎は口にした。

 

猿姫は三郎の先に立った。

身軽な彼女は、梯子に手足をかけることなく、二階から一階まで一息に飛び降りたのだ。

足の裏の柔らかい部分で着地の衝撃を殺しながら、立ち上がった。

二重櫓の一階内部では、内側からかんぬきを閉めた観音開きの扉に、阿波守が張り付いている。

外の様子をうかがっているようだ。

猿姫は頭上を見て、上からのぞいている三郎に、降りてくるようにうながした。

同時に阿波守にも注意を払う。

「おい髭面、なぜさっさと外に出ない」

彼女は、扉に片側の耳を当てて外の様子をうかがう阿波守に声をかけた。

阿波守はうるさそうに猿姫を見た。

「俺も、もう若くないのでな。お主のように無茶をやっていたら体がもたない」

彼はそう言って、もう一度外の様子を耳で確認してから、扉のかんぬきを外した。

扉を開けた。

猿姫は、梯子の上から降りてきた三郎を迎える。

そうしながら彼女は、阿波守に自分が上から飛び降りてきたところを見られたのだと思い当たっていた。

猿姫にしてみれば何気なくやったことだった。

だが阿波守のような年上の人間からすれば、梯子を使わずに上から飛び降りてくるのは子供じみた、はしたない行いに見えるのかもしれない。

猿姫は密かな恥じらいを覚えた。

人質風情の髭面の男から恥辱を受けて恥ずかしく、腹立たしい。

今は生きるか死ぬかの局面なのに、余計なことを考えてしまう。

猿姫は思わず反射的に、梯子から降りて傍らに立った三郎の腕を手に取った。

そのまま三郎を誘い、二人で櫓の外に駆け出していた。

櫓の下の階に降りてくるなり彼女に引っ張られて、三郎は面食らっている。

 

二の丸には、まだ関勢は及んでいない。

しかし、怒鳴り合う大勢の声が遠くから響いてくる。

何か重いものを、門にぶつける鈍い音もする。

破城槌を使っているのだろう。

どうやら、関勢は大手門を破るのに手こずっているようだ。

二の丸ではそこらを慌しく行き来する、神戸勢の兵たちの姿があった。

彼らは戸惑っているものの、表情から見るにまだ平常心を保っていた。

予想したよりも、時間的余裕があるのかもしれない。

阿波守、猿姫、三郎の三人は顔を見合わせた。

「下総守殿は、もう関勢の裏切りについて知っておられるのでしょうか…」

猿姫と阿波守の顔を見比べながら、三郎は気弱な声を出している。

「どうだかな」

阿波守は、即答した。

「俺たちはもうこの城から出て行くのだから、城主のことは関係あるまい」

冷静な声色である。

心に引っかかるものはあるが、猿姫も阿波守にほぼ同意である。

もとより、この城には旅の途中に立ち寄ったまでだ。

これから日本でも随一の港町、堺の町に出向く道中なのである。

この神戸城で多少丁寧な歓待を受けたからと言って、自分たちが神戸氏に必要以上に肩入れすることはない。

神戸城は、あくまで通過点に過ぎなかったのだ。

口には出さないまでも、そんな思いを胸にして、猿姫は黙している。

戦そのものには不慣れでも、猿姫は世間の厳しさをよく知っていた。

猿姫は生家では、不遇な身の上だった。

生みの父親とは、早くに死に別れた。

家にいるのは「継子」である彼女に冷淡な義父と、男性関係にだらしのない母。

生家に、彼女の居場所はなかった。

成長して程なく、大大名である今川家の家臣にあたる武家遠江国の松下家に奉公に出された。

そこでも猿姫は、同僚との関係で辛酸を舐めている。

人間は皆、自分本位の生き物なのだ。

そのことを、猿姫はこれまでの人生で、嫌というほど味わってきている。

皆がそうなのだから、自分たちが生き延びるために、どうして自分本位になってはいけないのだろう?

 

そんな思いを、猿姫は胸の奥底に抱いている。

半ば、あきらめにも近い思いだった。

しかし今、戦のやり取りという切羽詰った命の局面で、一行の頭である三郎がどう判断するのか。

猿姫は、三郎の顔を見守っている。

「やはり、このまま逃げ出すのは心苦しいことでござる。神戸下総守殿に加勢しましょう」

三郎は、猿姫と阿波守とを見比べながら、はっきりした口調で言った。

決意の感じられる声だった。

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