『瞬殺猿姫(8) 身だしなみの猿姫。脅しをかける髭武将』
可愛らしい、さえずる小鳥の声が障子窓のすぐ外から聞こえる。
織田三郎信長(おださぶろうのぶなが)は、気持ちよく、まどろんでいた。
弟である織田家当主、織田弾正忠(おだだんじょうのじょう)の手によって。
三郎は、故郷、尾張国を追われた。
行きがかり上、同行している棒術の達人、猿姫と共に。
ここ数日の間は敵の追求を逃れながら、屋外で寝起きしていたのである。
久々に、布団の上で過ごせた一夜だった。
「宿の布団は気持ちようござるな、猿姫殿」
三郎は掛け布団にくるまったまま、寝言を言った。
「そうだな」
三郎の方を見もせず、返事をした猿姫。
彼の方には背を向けている。
猿姫は部屋の端にあぐらをかいて、持参した携帯用の手鏡を覗き込み、化粧に余念がない。
一人だけ早起きして、宿の台所を使い朝食を用意した。
自分だけ先に済ませている。
化粧にかける時間を見越してのことだ。
娘らしく着飾ることには無頓着な彼女も、身だしなみは疎かにできない。
武士の世界で無事に生きていくには、相手への礼節が欠かせないのだ。
以前に奉公していた武家で、猿姫は同僚たちに馴染めなかった。
三郎の足を引っ張らないためにも、今後同じ失敗はすまい、と思っている。
そのための化粧だ。
「棒女、お主のような野卑な者も化粧道具を持っておったのか」
背後で、三郎とは別の野太い声。
蜂須賀阿波守(はちすかあわのかみ)である。
織田家と敵対する斎藤家の家臣だが、今は猿姫たちに人質として扱われている。
「うるさいぞ、貴様に野卑などと言われたくない」
指先で、唇に紅を塗ろうとしていた猿姫は手を止め、振り向いて怒鳴った。
気持ちよく眠っている三郎の布団の向こうに、阿波守の布団がある。
阿波守は、布団の中に押し込められ、その上から縄で縛られていた。
横になったまま、縛られた布団の中から首だけ出して、猿姫の方を見ている。
苦しい姿勢だ。
だが昨晩えび反りにされて縛られていたことを思えば、まだ優しい扱いだ。
寝るときぐらいはせめて少し楽にさせたい、という三郎の気遣いだった。
「おや。三郎殿。さっきの言葉は、寝言だったか」
阿波守の髭面から三郎の寝顔に目を移し、猿姫はのどかな声を出した。
三郎はすやすやと気持ち良さそうに寝入っている。
「ここのところ生きるか死ぬかの瀬戸際だった。無理もない」
独り言を言って、猿姫は化粧を続ける。
顔に薄く白粉を塗り、眉を描いて唇に紅を塗った。
自然な仕上がりになった。
それでもまだ納得がいかないのか、小猿のように、首をかしげながら。
手鏡の中の自分の顔を、生真面目な顔で見つめている。
「着物は、着替えんのか」
猿姫の小さな背中に、阿波守は声を投げかけた。
「どうせなら、女の着物を手配したらどうだ」
猿姫は羽織に短い股引という奇抜な服装で過ごしている。
今は太ももから下は素足を見せている。
だが屋外に出るときは、いつも脚に脚絆を巻く。
「着物はこれでいい。私はあくまで三郎殿の武芸の師匠だ、侍女ではない」
無意識に、人質の阿波守に真面目に返事をした。
我に返って舌打ち。
「うるさいと言うのに。人質の貴様が、指図をするな」
阿波守は、背後で声をたてずに笑っている気配である。
ようやく目を覚ました三郎は、枕元で応対した猿姫を見て、飛び起きた。
「いったいどうしたのでござる、猿姫殿」
「化粧をした」
「それはまたどうして」
敷布団の上に起き直って、三郎は猿姫を見つめた。
寝巻きの乱れも気にせず、目をこすってからさらに猿姫の顔を見つめた。
「忘れたのか、三郎殿。今日は、神戸家を訪ねると昨晩話し合っただろう」
「ああ、そうでござった、なるほどそれで」
と上の空でうなずきながら、彼は化粧の施された猿姫の顔をじっと見ている。
「これぐらいなら、相手方への粗相もないと思う」
猿姫は早口に言った。
無言でうなずきながら、三郎はまだ見ている。
日頃の三郎らしくない無遠慮な視線なので、猿姫は居心地が悪くなった。
「御免、厠に行ってくる」
三郎から目を反らした。
近くに置いてあった棒を慌ててつかみ、猿姫は席を立って部屋から出た。
通路を小走りに行き、階段を降りていく足音。
猿姫が閉めていった障子戸を、三郎はいまだ呆然と眺めている。
そんな三郎を、阿波守は布団の中に縛られたまま、興味深く見守っている。
「おい、うつけ」
「なんでござる」
無礼に呼びつけられても、三郎は心のこもらない返事である。
「女に恥をかかせると、後が怖いぞ」
「恥?」
我に返って、驚いて阿波守を見た。
「拙者、今、猿姫殿に恥を?」
「そうだ。今のあの女の逃げ方を見たか」
「逃げたのでござろうか。あれは、厠に行くと…」
「今頃、厠で、すすり泣いておるぞ」
「えっ」
三郎の顔から、血の気が引いた。
「しかし、拙者…。見慣れないお顔だから、つい見入っていただけなのでござる」
「初めてお主に、化粧した顔を披露したのだ。うつけのごとく眺めているだけでどうする」
「なるほど」
責める口調の阿波守に、三郎は弱りきった顔を見せた。
「恥をかかせたな」
阿波守は断言した。
三郎は頭を抱える。
猿姫は、用もなく厠に入る気になれなかった。
階段の下に、物置部屋がある。
戸が薄く開いていた。
予備の寝具類がしまってあるのだが、中には人が一人入って座れるだけの余裕がある。
音を立てずに戸を開けて、猿姫は中に滑りこんだ。
膝を曲げて座った。
手持ちの棒を脇に置いた。
戸を内側から閉める。
息をついた。
さほど動揺しているわけではない。
落ち着いたら三郎たちの食事の準備をしよう、と思う。
思った猿姫の、その背後に詰まれた布団の隙間から、腕が伸びてきた。
「あっ」
猿姫の首に、腕がからみつく。
後ろに引き寄せられた。
「いたずらに声を出すな」
背後から、押し殺した声がする。
中から気配など感じなかったのに、と猿姫は思った。
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