『瞬殺猿姫(9) 猿姫と物置部屋の者』
狭くて暗い、物置部屋の中である。
猿姫の首には背後から腕がからみついている。
あごの下にかかるその腕に、猿姫(さるひめ)は指を立てた。
人間の腕に存在する急所の位置を、猿姫は熟知している。
「待て、何もしないから」
猿姫の殺気を気取ったらしく、背後の者は慌しい小声で言った。
女の声だ。
しかし、物置で詰まれた布団の隙間に潜んでいるとは、只者ではない。
「そう言うなら、まずこの腕を解け」
突然後ろから襲われた不快感で、猿姫は厳しい声で命じた。
腕が解かれる。
猿姫はそのまま、わずかに上体を起こした。
床に置いた棒に手先を伸ばした。
狭い場所で、素早く横周りに回転し、相手の方に向き直る。
その勢いに合わせて、猿姫は相手を見もせずに、棒先を後ろにいる相手の首筋に突きつけた。
「うっ」
相手の口から苦しげな声が漏れた。
棒が、相手の喉を横から押さえつけている。
ようやく猿姫は相手に向き合った。
だが、その場での目の頼りは、戸のわずかな隙間を通して差し込んでくる光だけだ。
相手の姿も、ぼんやりと輪郭が見えるばかりだ。
詰まれた布団の隙間から、二本の腕が伸びている。
腕の根元に、頭部があった。
頭巾か何かをかぶっている。
その相手の喉に棒先を押し付けながら、猿姫は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「いったい何者だ、お前は」
思わず高い声で問い詰めた。
「ちょっと、だから声を出すなと言っただろう」
小声で、相手はたしなめるように言う。
「宿の者に知れたら困る。後生だから、静かに」
懇願する声色である。
得体の知れない相手だが、殺気は感じない。
「そうはいかない」
しかし、猿姫は相手を問い詰めなければならかった。
「この上の部屋に、貴人が滞在している。お前のような得体の知れない者を、階段下に潜ませておく訳にはいかない」
棒先を、なお強く相手の喉に押し込んだ。
ぐっ、と喉を鳴らす声。
「何者で、何の目的があってここに潜んでいる」
猿姫は押し殺した声で問うた。
相手の顔に自分の顔を近づけて、脅しをかける。
同時に、相手の顔をよく見ようという気もあった。
女は頭部を頭巾で、口元を布で巻いて覆い隠している。
両目ばかりが露わだ。
その丸い目が揺れて、猿姫の目を見返している。
この女はいわゆる忍びの者では、と猿姫は思った。
であれば、部屋の外から気配が感じられなかった説明もつく。
「忍びの者か」
猿姫は問い詰めた。
「確かに忍びの者だけど、今はただ休んでいただけだ」
相手は苦しい息の下で答える。
「だから、その棒で押さえるのはやめて」
懇願した。
「どこの手の者か答えろ。そうすれば放してやる」
猿姫は、容赦しない。
油断すれば、忍びの者は何をしてくるかわからないのだ。
そしてあっさり「忍びの者」などと白状する人間はいっそう危険だ。
「それは…」
言い淀む女の目を、猿姫はにらみつける。
相手の体が、一瞬震えた。
「それだけは、口が裂けても言えない」
女は、目に涙を浮かべて言った。
「織田家とは何の関わりもない家柄だ。そういうことで勘弁して」
弱々しい声だが、その実、猿姫の要求をはねのけるものだった。
織田家の名を口にした以上、この女は猿姫たちの素性を知っているらしい。
であれば、彼女の目的が何であれ、聞き出さなければならない。
こういう相手をいたぶるのは苦手だ、と猿姫は苦々しく思う。
それでいて、女が主の名を吐かなかったことには、好感を持った。
「猿姫殿、なかなか戻って来ませんな」
宿の二階で、織田三郎信長(おださぶろうのぶなが)は、心細い声で言った。
寝具を片付けて普段着の羽織に着替え、座敷にあぐらをかいている。
傍らには、同様にあぐらをかいた蜂須賀阿波守(はちすかあわのかみ)がいる。
阿波守も、寝具を片付けていた。
彼は寝具ごと、縄で縛られていたはずである。
だが、横にいる三郎が気付かない間に。
いつの間にか自分一人で布団から抜け出していたのだ。
寝具の手前に、小さくまとめられた縄が揃えて置いてある。
「心配か」
足元に煙草盆を置いて、煙管の口を吸いながら、阿波守は三郎の方を見やった。
この煙草盆も、いつの間にか出てきたものだ。
「心配でござる」
猿姫のことで頭をいっぱいにした三郎は、解かれた縄にも煙草盆にも無頓着である。
「出奔したかもしれんな」
阿波守は鼻から煙を吹いて、気軽に言った。
「出奔?まさか」
三郎は、深刻な顔で阿波守を見返した。
「化粧を褒められなかったのが、そこまでの恥でござるか」
「まさか。そんなわけがあるか」
「はっ?」
「俺はただの冗談で言ったのだ」
三郎の生真面目な反応を、阿波守は笑いとばした。
「じきに戻ってくるだろう。しかし機嫌を損ねておれば、二、三日はお主と口を利かぬかもしれんがな」
「…で、ござるか」
三郎は肩を落とした。
猿姫は、女を、物置部屋から外に引きずり出した。
日の下に晒すと、柿渋色の、野良着に似た忍び装束をまとった姿である。
女を通路の脇に正座させた。
「その頭巾を取れ。かえって目につく。手早くしろ」
立ったままの猿姫は、相手の頭上から命じた。
女は渋々、頭巾と口元を覆う布とを取り外している。
頭巾の中から、黒髪がこぼれ出た。
猿姫の髪は、肩よりも上で切り揃えている。
この女の髪は、肩の下あたりまで伸びていた。
並の女よりはかなり短いが、猿姫のように活発に動くには差し障る長さだ。
よくこんな長い髪をして忍びの者が務まるな、と猿姫は思った。
顔を見ると、猿姫よりも年上らしい。
大人びた顔立ちだった。
「お前が敵でないとわかるまで、解放するわけにはいかない」
年上らしい女に、猿姫は冷酷に言いつけた。
「しばらくの間、私たちに同行してもらう」
女は不安そうに猿姫を見上げる。
逆らっても仕方ない、という諦めの色が浮かんでいる。
力なく、うなずいた。
猿姫も、手荒な真似をしないで済むならその方が気楽なのだ。
息をついた。
「ときにお前、名前は?」
名前を聞いておかないと後々、不便だ。
「一子」
「一子?」
「うん」
一子(かずこ)と名乗った女は、力なくうなずいた。
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