『瞬殺猿姫(28) 猿姫を置いて食事する、三郎と阿波守』
室内が清められた後、客間の一端に寝具が敷かれた。
眠っている猿姫(さるひめ)のためのものだ。
織田三郎信長(おださぶろうのぶなが)は、城の下女たちと協力して彼女を寝具にまで運んだ。
眠りながら、危険な得物を手にしたままの猿姫だ。
先に蜂須賀阿波守(はちすかあわのかみ)が痛手を負っている。
眠りを妨げれば、一撃が飛び出すのだ。
数人の手で、時間をかけて慎重に猿姫を寝具の上に寝かせた。
蜂須賀阿波守は、手を貸さずに座ったまま様子を眺めている。
猿姫にいたずらを仕掛けた結果、痛い目に遭っている。
もう近づきたくないのかもしれなかった。
下女たちのはからいで猿姫の手前に屏風を立てて、人目から彼女の姿は遮られた。
昨夜泊まった白子の宿でも、三郎、猿姫、阿波守で同じ部屋に寝泊りしている。
だが、猿姫を男二人とを隔てるものはなかった。
三郎は猿姫と野外での潜伏生活が長かったので、気遣いを忘れていた。
本来なら、男と同宿する彼女のために、屏風なり衝立なりを用意するべきだったのだ。
今さらながら、三郎は己のいたらなさを知り、苦い思いを味わっていた。
下女たちが出ていった後、三郎は阿波守の近くに腰を下ろした。
「猿姫ごときを粋な屏風で守ったりして、何かの冗談のようだ」
阿波守は屏風を指差して、笑っている。
金の地に、伊勢の海から見た港の風景を描いた屏風だ。
「猿姫殿は、女子でござる。これぐらいのことはしなければ…」
三郎はむきになって言い返した。
「そうかそうか」
阿波守はまともに相手にしない。
この人に言っても仕方がない、と三郎もあきらめている。
阿波守は猿姫とは折り合いが悪いのだ。
新たに二人分の膳が運ばれてきた。
台所係の下女たちは、薬を盛られた件があってか、恐縮していた。
三郎は、彼女たちに気を遣わせないよう、気安く応対する。
彼女たちが去った後、三郎と阿波守だけで昼食を始めた。
三郎はお守りの大事な箸を使わず、別の箸で食事する。
箸で料理を口に運びながら、忍びの男と同席した際のことを思い出していた。
部屋に入った際に、忍びは立派な武士の風体で座っていた。
猿姫は彼のことを怪しみ、配膳された食事にも気を配ったが、眠り薬の即効性にやられてしまった。
「下女の方々、恐縮しておられましたな」
料理を箸で口に運びながら、三郎は阿波守に何気なく話しかけた。
阿波守はうなずいている。
台所では、忍びの男の侵入を許してしまったらしい。
「客の食事に台所で薬が盛られたのだから、当然だろう。あの女たちの不手際だ」
「それはそうかもしれませぬが…」
忍びは人心掌握に長けているらしい、と三郎は聞いたことがある。
調理と配膳で手一杯のところに、何気なく忍びがやってきたとしたら。
普通の人間なら、隙をつかれても無理はないのではないか。
たまたま忍びに目をつけられ利用されたせいで、自分たちの立場も危うくなってしまった。
彼女たちも不運だ。
「赤の他人の心配などしていると、自分のことがおろそかになるぞ」
唐突に阿波守に言われて、三郎は顔をしかめた。
「拙者のことは心配いりませぬ。頼もしい、猿姫殿が一緒でござる故…」
「その頼りの猿姫が、うかうかと薬をかがされて寝ているではないか」
「相手が忍びでは仕方ござらぬ」
「では忍びには勝てんのだな。今度は忍びに毒を盛られたら、どうする?」
食事を咀嚼しながら、意地悪い目で三郎の顔を覗き込んで言う。
三郎は答えに困った。
「それは…」
今回は、たまたま盛られたのが眠り薬だった。
相手に猿姫を殺す意図があったとしたら、どうなっていたかわからない。
そう思うと、言い様のない不安に襲われて、三郎は身を震わせた。
「縁起でもない…」
「事実だろう」
阿波守は、そっけなく言った。
「だいたいだ。俺だって、あの女にさんざん痛い目に遭わされているのだ。機会があれば、隙を見て毒の一杯や二杯だな…」
三郎は手が震えて、箸先から、芋の煮付けを膳の上に取り落とした。
「阿波守殿…」
三郎の顔は青くなっている。
阿波守を、引きつった表情で見た。
「先ほど、猿姫殿の頬っぺたをさんざんつねられたでしょう。あれで何とか我慢を…」
切実な声色になる。
彼の青い顔を見て、阿波守は苦笑した。
「何、毒の話は冗談だ、本気にするな」
「悪い冗談でござる」
三郎は息をついた。
「お主らが今後どうなるか、俺は見届けるのだ。自分で手を下すつもりはない」
意味深なことを言って、阿波守は食事を続ける。
三郎は彼の真意が読み取れず、曖昧に首をかしげた。
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