韓国旅行二日目(6)。クドレ船着場から定林寺址、国立扶余博物館。雑念を持った

クドレ船着場付近から市街地までそこそこ距離がありそうです。

また歩きです。

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彫刻の立っているクドレ彫刻公園でしばらくまったりすることもなく、重い足を運びます。

時間が惜しいですからね。

まだ扶余市内に見たい史跡があります。

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コンビニがあったので、ひと休みです。

船着場で메로나(メローナ)を食べたところなのに、もう喉が乾いています。

2000ウォン(約200円)とお高めなスポーツ飲料を買い求めました。

レモンとオレンジを合わせた味で、さわやかな甘さがたまりません。

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この容器はキャップを開けた状態で逆さにしても中身が漏れず、飲み口から吸ったときだけ弁が開いて中身が出るようになっています。

面白い仕組みですね。

日本の飲料でも採用されているのかもしれませんが、私はこの商品が初めてでした。

乾きのままに飲み続けていたら、ひと口でほとんど飲んでしまいました…。

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市街地に戻ってきても歩きます。

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目的地の定林寺址(チョンニムサジ)に来ました。

百済時代のお寺跡です。

見学料1500ウォン(約150円)を払って敷地内へ。

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かつての寺院の境内だった、広い敷地が開けているのですね。

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寺院の建物は遠くに見える新しい建物以外は、礎石しか残っていません。

ただこの礎石から、中央の石塔を取り巻く回廊型の建築がかつては建っていたことが見てとれます。

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以前の韓国旅行で行った新羅の古都、慶州でも同様の石塔を見ました。

百済には仏教関連の技術者が多く、新羅、日本にもこの百済の技術者を通して百済様式の仏教建築等が伝わっていたそうです。

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あの建物が気になっています。

近づきます。

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中には白々とした色合いの石仏が安置されています。

その存在感に衝撃を受けました。

ガイド本によると、高麗時代のものだそうです。

何年も前に、山口県防府市で見た「多々良大仏」を連想しました。

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はっきりしない造形ながら、味わいのあるお顔です。

何か好感が持てます。

無心に拝みました。

 

日本を含めた近隣の国にも影響を及ぼした百済仏教文化について考えながら、定林寺址近隣の国立扶余博物館へ足を伸ばします。

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また喉が渇いています。

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「子供博物館」が併設されていますが私には関係ありません。

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足早に本館へ。

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と思いましたがその前に本館脇に見つけた自販機へ。

大塚製薬ポカリスエットもありますね。

韓国の街中では飲料自販機をほとんど見かけませんが、駅の構内と博物館の敷地内には設置されていることが多いです。

博物館見学の前に、ここで炭酸飲料を飲んでいきます。

その後、館内へ。

入館料無料で、扶余から出土したかつての百済にまつわる品々を見学できます。

やはり仏像、寺院の瓦等の仏教関連の収蔵品が多く展示されていました。

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奈良県石上神宮の伝来品として著名な日本の国宝、七支刀のレプリカも展示されていました。

七支刀も百済から当時の日本に送られたものだったんですね。

  

ところで館内の展示に添えられた日本語解説を読む限り「文化的先進国だった百済後進国だった日本を含む隣国に文化を授けた」という観点からのものに終始しており、私は不満でした。

百済が一方的に与える立場だった、という趣旨しか伝わってこなかったのですね。

なぜ百済は貴重な文物、技術を惜しげもなく日本を始めとした隣国に伝えた(伝わった)のか?

私はむしろその理由の部分を知りたいのです。

国と国との交流には様々な側面があるはずなのに、「当時の自国文化が優れていた」ということだけを主張する展示方針に、正直なところ辟易としました。

もちろん韓国側が政治的、愛国主義的な意図からそうした一方的な解説をしているとは限らず、百済の文化が優れていたことを示す以上の史料は見つかっていないのが理由、なのかもしれません。

それにしても日本側の研究には「当時の百済は日本に朝貢する立場だった」という見方 もあるわけで、そうした隣国の視点も取り入れて多面的な展示をつくることはできないのか、という不満を私は国立扶余博物館の展示解説に対して持ちました。

 

出土品を見るのはいいのですが、政治的な雑念が浮かび、目が曇った感は否めません。

古代の人的交流、文化交流にも、当然生々しい背景があったはずです。

千年の時間が費やされて、その生々しさが濾過された末の残り香だけを味わっている間は、心穏やかな気持ちでいられるのですね。

ところがその残り香の味わいを解釈するのは生々しい人間である私なので、己の目的を忘れて新たな雑味を付加してしまうのです。

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先人が本当に残したものは何なのか?

雑念に迷わされることが多い私には、そのままの解釈が難しいのだと思います。

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