『瞬殺猿姫(14) 不審の三郎、苦しい猿姫』
北伊勢の神戸城、本丸の御殿。
猿姫(さるひめ)たち一行は客間をあてがわれ、しばらく滞在することになった。
それぞれの刀、鉄砲など、没収されていた武具も返却された。
与えられた部屋に来て荷物を置くなり、さっそく猿姫は、愛用の棒の手入れにかかる。
手元を離れていたので、愛おしいのだ。
座敷に座り込み、膝の上に棒を置いて、傷が入っていないか入念に調べた。
「ああよかった、無事だった」
懐紙を使って表面から汚れをふき取り、手の平に乗せた少量の椿油を塗りこむ。
「大げさな。短い間のことではないか」
棒を扱う猿姫の手つきを見て、蜂須賀阿波守(はちすかあわのかみ)は馬鹿にした声をあげた。
猿姫は、城主との謁見中に居眠りをしていた阿波守など、相手にしない。
ただ、阿波守とは別の視線に気付いて、そちらに顔を向けた。
織田三郎信長(おださぶろうのぶなが)が、表情の優れない顔で、猿姫を見ている。
猿姫は、彼の視線に緊張した。
先ほど、三郎と城主である神戸下総守(かんべしもうさのかみ)の会話に、彼女は割り込んだ。
そのうえ、自分が主導して話を進めてしまったのだ。
三郎にとっては、屈辱だったかもしれない。
「さっきは差し出がましいことをして、すまなかった」
猿姫は棒を抱えて座ったまま、三郎の方に体を向けた。
武家の作法で、頭を下げた。
そうした謝罪を受けても、三郎の表情は変わらない。
彼も客間の座敷にあぐらをかいて、苦虫を噛み潰したような顔をしている。
いつもなら、猿姫の言葉を重く受け取る彼なのだが、今は様子が違う。
「邪魔をする気はなかったのだが、とっさに口が出てしまったんだ」
猿姫は、しきりに弁解する。
一行の代表として神戸下総守と交渉していた、三郎に対する越権行為だった。
結果的に成果が得られたからこそよかったようなものだ。
「許してくれ、三郎殿」
三郎の態度が変わらないので、猿姫は頭を深く下げて、謝った。
そんな彼女の顔を、三郎は苦々しい表情のまま見ている。
ふいに、三郎は立ち上がった。
ずかずかと歩いて、棒を抱えて座っている猿姫の前に立つ。
彼を見上げて、猿姫は身を固くした。
「三郎殿?」
「少し拙者に付き合ってくだされ」
猿姫を見下ろして、思いつめた声で言う。
前かがみになり、猿姫の右手を取った。
「え…」
猿姫は呆気に取られて、三郎が引くままに立ち上がった。
かろうじて左手に、棒を持っている。
「阿波守殿、留守を頼みます」
面白がって見ている阿波守に、三郎は声をかけていく。
阿波守は喜色満面の髭面で、うなずき返してみせた。
「猿姫殿。拙者は、貴殿に怒っているわけではござらぬ」
三郎はそう吐き出すように言って、ため息をつく。
客間から細い通路をしばらく歩いて。
二人は、中庭に面した縁側に肩を並べて腰をかけていた。
鉄砲を部屋に置いてきた三郎と違い、猿姫はしっかり棒を携えている。
いつでも手放さないのだ。
棒を手にしている限り、心に余裕が保てる。
猿姫は、隣の男の横顔を見返した。
「それなら、どうして私をここに?」
「それは」
三郎は、自分の髪を乱暴にかきむしる。
「言いにくいことでござるが」
消え入りそうな語尾で言った。
猿姫は相手を見つめる。
「どうにも、気にくわないのです」
「何が」
「神戸下総守殿の、貴殿を見ていた目つき」
三郎は、早口に言い捨てた。
猿姫は思わず息を飲んだ。
そうはっきり言葉にされると、猿姫もうろたえてしまう。
「そうなのか」
何とか口先でとぼけた。
神戸下総守が、好意を持った目で自分を見ていたことは、猿姫も気付いている。
ただそれを、三郎に指摘されるのは快くなかった。
「そうなのです」
三郎は苦しそうに、うなずいた。
「しかしそれは、三郎殿の思い違いでは?」
猿姫はさらにとぼけた。
「いえ、そうとは思えませぬ」
三郎は、強い口調で返した。
「根拠はありませぬが、拙者には確信がござる」
そう言ってがんばる。
「かの御仁が我らにこの城に滞在するよう勧めたのも、怪しいところです」
「というのは」
「つまり…猿姫殿を、一晩でも長く手元に置きたいからだと」
普段の三郎に似合わない、不躾な言い方である。
猿姫は困ってしまった。
「ですから、お願いでござる」
三郎は、横から猿姫の両肩をつかんだ。
一瞬躊躇したが、今はそれを振り払うだけの勢いが猿姫にはない。
三郎の言葉を待った。
「ここから出て行くまでの間、下総守殿には一瞬たりとも気を抜かないでくだされ」
「そんなことはわかっている…」
そう答えるのがやっとだ。
両肩に、三郎の指が食い込んで、痛い。
三郎は、自分が猿姫を傷つけていることに気付いて、慌てて手を離した。
「すまぬ、猿姫殿」
いたたまれなくなって、猿姫は膝の上に置いた棒に視線を落とした。
三郎もそれ以上は口に出さない。
猿姫は視線を落としたまま小さくため息をついた。
神戸下総守にはすでに、助力を約束させている。
そうである以上、この城からはできる限り早く出て行くべきかもしれない。
このまま長居すれば、何かよくないことが起こりそうだという予感が、猿姫にはある。
猿姫と三郎が無言で腰掛けている、その二人の背後。
通りがかる者がある。
だがその人物には気配がなく、猿姫すらも間近に近寄られたことに気付かなかった。
「あら、こんなところで逢引き?」
浮かれた女の声。
声をかけられて、猿姫も三郎も、縁側から飛び上がった。
次の瞬間、猿姫は全身で振り返って縁側の上に立つ。
短く持った棒の先を、背後の人物の喉元に突きつけた。
「またそれなの」
喉の表面を突かれ、相手は咳き込みながら苦しそうに言う。
白子宿の宿で出くわした、忍び装束の女。
一子(かずこ)である。
今は頭巾をかぶらず、黒髪と顔とを二人の視線に晒している。
猿姫は、棒先を相手の喉元から降ろした。
一子をこの城に、猿姫自身が命じて忍び込ませていたのだ。
しかし猿姫も彼女のことをすっかり忘れていた。
三郎は縁側に腰掛けたまま、呆気に取られて二人を見比べている。
「猿姫殿、この女人は。お知り合いでござるか」
かすれた声で、三郎は尋ねる。
猿姫、力なくうなずいた。
一子のことを、三郎にどう説明するべきか。
猿姫自身も、彼女のことをまだよく知らないのだ。
当の一子は三郎の目を見て、愛想良く笑いかけていた。
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