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『瞬殺猿姫(26) 眠る猿姫、見つめる阿波守』

滝川慶次郎利益(たきがわけいじろうとします)は、唇を舐めた。

口の中が、乾いている。

織田三郎信長(おださぶろうのぶなが)と向き合っている。 

二人の間の空気は、張り詰めたままだ。

三郎は眠る猿姫(さるひめ)をかばい、慶次郎に厳しい顔つきで挑んでいる。

自分の代わりに、三郎に猿姫が持つ一子(かずこ)の財布を探り出してもらう。

慶次郎はそう申し出た。

しかし、その申し出を蹴られた以上、もう彼にできることは残されていない。

財布をあきらめて、この場は逃げる。

それぐらいしか取れる道はないのだ。

慶次郎は、決心を固めた。

「いやどうも、昼餉の席を台無しにして悪かった」

緊張を破ろうと、明るい声で言った。

見上げる三郎は、怪訝な顔をする。

慶次郎は彼に構わず、足元に落ちた刀を拾った。

振り返って三郎と猿姫に背を向ける。

自分の膳の傍らに歩いて行った。

刀の鞘と、小刀とが置いてある。

それらを拾い上げ、自分の腰の帯に挿した。

後ろから見ている三郎の方を振り返った。

「猿姫さんのことなら、心配いらん。じっきに目覚めるわ」

呆気に取られて見ている三郎に会釈する。

「それでは、俺はこれで」

そのまま、部屋の障子戸を開けて外に出た。

 

慶次郎は静かに出て行った。

後ろ手に障子戸を閉め、通路を行く足音が遠ざかっていく。

拍子抜けするほど、あっけない去り際だった。

三郎は、塗り箸を握っていた手を、力なく降ろした。

全身の力が抜けて、床の上に崩れる。

傍らで横たわっている、猿姫の寝顔をうかがった。

愛用の棒を抱いたまま、眉を寄せて眠っている。

気難しい寝顔だった。

「助かった…」

猿姫の寝顔を見ながら、三郎は思わず安堵の声を漏らしていた。

猿姫は薬で眠らされているし、膳は倒れて料理は座敷の上に散らばっている。

それでも、得体の知れない男は目的の財布をあきらめて去った。

「助かった…」

再び、声を漏らした。

安堵感を噛み締めて、再び三郎は声を漏らした。

自分も猿姫も、無事だ。

 

しばらく後。

蜂須賀阿波守(はちすかあわのかみ)が客間に戻ってきた。

「阿波守殿…」

三郎は、力ない声をあげた。

阿波守は室内の状況に気付いて、目を細めている。 

彼が留守の間に、五人分の膳の用意がしてある。

ところが、ある膳の後ろに、猿姫が横たわっている。

彼女の横に三郎が座り込んで、不安そうな顔で阿波守を見ているのだ。

彼らの近くの畳の上に、料理が落ちて散乱している。

「何かあったのか」

阿波守はそ知らぬ顔で尋ねた。

「この場にて、ごたごたがござった」

ひとことでは、説明しがたい。

三郎は猿姫の寝顔に目をやる。

彼の視線を追って、阿波守も猿姫の状態に気付いた。

「棒女め、まだ日も高い時分から眠っているのか」

呆れて、馬鹿にした声だった。

「猿姫殿のせいではござらぬ。薬を盛られ申した」

三郎は慌てて彼女をかばった

「薬」

「忍びの、眠り薬でござる」

「まさか」

阿波守の顔色も変わった。

二人の方に、近づいてくる。

膳の横をまわって、猿姫と三郎の近くに膝をついた。

前屈みになり、猿姫の顔を覗き込んだ。

「ほう、よく寝ておるな」

時分の髭にまみれた顔を、猿姫の顔すれすれまで近づけている。

彼の鼻息が、寝ている猿姫の頬にかかるほどだった。

猿姫の寝顔がより険しくなっていく。

阿波守は気にしない素振りで、彼女の顔に舐めるような視線を浴びせ続けた。

「俺がこれほど近づけば、常のこの女なら飛び起きて棒を振り回しているはずだな」

三郎は、気を揉みながら見守っている。

「この女が薬を盛られたこと、城の者には伝えたのか」

猿姫の顔を間近で見ながら、阿波守は三郎に尋ねた。

「それが実は、言い出しかねてござる」

そう答える三郎の声には、力がない。

「なぜだ」

「先に神戸下総守殿と話して参ったところ、今晩、関家との間で夜戦を行う約束とのこと」

「約束とな。奇妙なことだな」

「いわば両家の儀式のようなものらしくござる。そんな折に、城内に忍びが入り込んでいるなどと。伝えれば、混乱にはなりませぬか」

「どうかな。神戸のためを思うなら、それはかえって伝えた方がよいのではないか?」

「確かにそうかもしれませぬな…」

うなずきながらも、三郎は不安な顔で阿波守を見ていた。

三郎と話している間も、阿波守はまだ猿姫の顔に鼻息をかけながら。

彼女の寝顔に、自分の不精髭をすりつけんばかりの間合いで、観察しているのだ。

眠り続ける猿姫の今後も不安ではある。

それ以上に三郎は、阿波守が猿姫に妙ないたずらをしでかさないか、心配だ。

「間近でよく見ると、上手く化粧を施しておる。こんな女の顔でも見違えるものだな」

目を細めて猿姫の顔を見ながら、阿波守は髭面の口元に笑みを浮かべた。

三郎は、はっとして阿波守を見た。

阿波守殿まで、そんな目で猿姫殿を見られるか!

叫びそうになりながら、かろうじて言葉を飲み込んだ。

「阿波守殿、もうよいでしょう」

それだけ言うのが精一杯だ。

しかし、これ以上猿姫の横に阿波守をいさせるわけにはいかない。

「そんなに近寄られては、猿姫が安心してお休みになれませぬ」

「何、安心して休ませることはない。起こせばよいのだ」

「阿波守殿…」

三郎は、阿波守に退くようにうながした。

しかし阿波守は従わない。

「待ってくれ。この女の寝顔に立ち会うなど、またとない機会」

「な、何の機会でござる」

三郎はいよいよ焦った。

阿波守の口ぶりがおかしい。

「今のうちに、これだけさせてくれ」

「阿波守殿、何を」

三郎は思わず叫んでいた。

目の前で阿波守が、寝ている猿姫の頬を、指先でつねっていた。

「ああっ…」

三郎は、制止することも忘れて目を見開いた。

「起きている間に同じことをすれば、間違いなく殺されておるわ」

猿姫の頬をつねりながら、阿波守は楽しげな笑い声をあげる。

心底、嬉しいらしい。

彼とは逆に、つねられた猿姫の寝顔はいっそう険しくなった。

阿波守はつねりながら、そんな猿姫の表情をのぞきこんでいる。

「起きぬものだな。盛られた薬というのはよほど効き目があったと見える」

「何ということをなさる。おやめくだされ」

ようやく気を取り直した三郎が叱りつけるのと、それは同時だった。

阿波守の体が、後方に大きく吹っ飛ばされた。

吹っ飛ばされ、壁に背中を打ち付けて、彼はうめき声をあげる。

そのまま座敷の上にうつ伏せになって、のびた。

「猿姫殿」

横になっている猿姫の体から、彼女の愛用の棒が上方に大きく突き出されていた。

寝たまま、至近距離にいた阿波守に一撃を食わせたのである。

彼女から離れたところに飛ばされた阿波守は、うつ伏せのまま、動かない。

三郎は、全身が緊張で固まるのを感じた。

おそるおそる、猿姫の顔をのぞきこんだ。

彼女は、いまだ眠っている。

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