『瞬殺猿姫(39) 猿姫を迷わせる一子の言葉』
棒の切っ先を、いつでも相手の喉元に突き立てられるように。
猿姫(さるひめ)は、棒を構えて腰に引きつけている。
目の前に立つのは、忍びの女、一子(かずこ)。
月明かりの下に、素顔を晒している。
「貴様と取引することなどない」
答えながら、ひと息に突き殺してしまえ、という声を聞く。
心のどこかで、怒り狂った自分が言っている。
一方で冷静な自分が、まずは一子の言葉を聞くようにうながしてもいる。
背後の祠の中に、織田三郎信長(おださぶろうのぶなが)たち、三人がいる。
彼らに外の様子を見てくると言って、猿姫は出てきたのだ。
そこで一子と出くわした。
待ち伏せされていたとしか思えない。
自分たちの動きは、この女に読まれていた。
ここでこいつを殺すと後に不安が残る。
そういう声が、自分の中でする。
「話だけでも聞いてくれない?」
猿姫の表情を冷静に見ながら、一子は落ち着いた声だった。
殺されるかもしれない、とは思ってすらいないようだ。
猿姫は黙したまま、相手の言葉を待った。
「あのね、あなた、私と一緒に来る気、ない?」
一子は猿姫の目を見て言った。
「何?」
猿姫は、口を開ける。
「なんだそれは」
「私について来ないか、と言ってるの」
猿姫は相手の顔を見つめた。
意味がわからなかったのだ。
「どういう意味だ」
「だから…」
一子は、じれったそうだ。
「あなただって、無能な男たちの面倒、いつまでも見ていられないでしょう?これから私と一緒に、忍びをやらない?」
猿姫の目を覗き込みながら、言う。
「無能な男たち…」
「国を追われた織田の倅に、役立たずの神戸の当主。それと、あの髭」
一子は、三郎と神戸下総守利盛(かんべしもうさのかみとしもり)たちのことを言っているのだ。
それと髭面の武将、蜂須賀阿波守(はちすかあわのかみ)。
無能な男たち。
「あの連中と一緒にいたら、死ぬまでこき使われるよ、あなた」
目の前に立って、語り聞かせる一子である。
猿姫は、言葉に詰まった。
「ほら、思い当たるところがあるんでしょう?」
「そんなことはない…」
かろうじて言葉にした。
三郎と阿波守とを連れて、行くあての定かでない旅をしてはいた。
そしてその間、猿姫は確かに、旅に不慣れな三郎の世話をいろいろと焼いている。
でも三郎は大名の子息で、身の回りのことに不自由だから仕方がないのだ。
「あなたはあの子の家臣でもないのに、そんな立場に甘んじていて、いいの?」
一子の言葉が、耳に入る。
その通り、猿姫は三郎の家臣ではない。
武芸の師匠、という名目で同行している。
その実は彼の身の回りの世話をして、家臣であり下女でもあるような、あやふやな存在になっている。
「そんな半端な立場でいいの?」
猿姫の迷いに付け込むような頃合いで、一子は口を挟むのだ。
「織田の倅に、将来なんかないよ。頭のいいあなたになら、わかるはずでしょう。あの子はあのまま誰にも相手にされず、運がよくてもどこかの土豪の客将くんだりになって、一生を終えるでしょうよ」
猿姫は息を飲んだ。
一子の、あまりに辛辣な言葉であった。
だが猿姫自身が今までに、そういう悲観を持たないでもなかったのだ。
三郎は、畿内の大大名で天下人とも目される三好長慶(みよしながよし)筆頭の三好家と接触して、彼らに取り入ることを当面の目標にしている。
しかしその目標が達成できなければ、三郎にも彼に同行する猿姫にも、それ以外の行くあてはなかった。
二人の故郷である尾張国は、彼らが敵対する織田弾正忠信勝(おだだんじょうのじょうのぶかつ)が支配している。
戻ることは出来ない。
「三好家のところに、いったいどれだけの武士が集まっているか、知っているの?」
猿姫の心を見透かすように、一子は続けた。
「三好家に仕えるか、彼らに取り入ることができれば、自分の国での争いに有利になると見込んでね。日本中の土豪だの浪人だの、半端な連中が大勢訪ねて来てるのよ。あなたたちなんか、三好家の相手にされるわけがないでしょう」
一子は辛辣な、長いせりふを言って聞かせた。
事情に詳しい人間の持つ重みがその言葉にはあった。
猿姫は、内心たじろいだ。
目の前の女は、自分や三郎よりも、三好家の内情に詳しい。
「でも…」
何か言い返そうと思って口を開いた。
しかし何も、猿姫の頭には浮かばない。
息を吸い込んだ。
かろうじて、言葉が口に上った。
「三郎殿は南蛮の武具が使えるし、私は棒術の達人だ」
それぞれ、才能があるのだ。
三好家ほどの武家になら、自分たちの才能の使いどころもあるだろう。
一子は、猿姫を冷たく見返した。
「あなたの棒はともかくね。南蛮渡来の云々は、三好家ではあふれ返っているの。今、この日の本で誰が一番南蛮に通じていると思うの?」
「誰なんだ…」
「あなただって、わかっているくせに。当の、三好家でしょう?」
堺の港と瀬戸内海の各港に影響力を及ぼし、南蛮貿易の推進に一役買っている三好家。
「南蛮の鉄砲だって、連中はもう揃えているんだから。今さら三郎殿なんかが行っても、ありがたがらないのよ」
相手の言葉を聞いて、猿姫は心細い気持ちになった。
三郎は三好家を頼りに旅をしてきた。
彼がその頼りの三好家に売り込めるものと言えば、織田家の嫡男であるという生まれと、南蛮渡来の鉄砲の腕前だけなのだ。
もしその鉄砲の腕前が評価されないのだとしたら、これは心細い。
「だからあの子たち、無能だと言うのよ」
一子は、畳み掛けるように言った。
「そういう言い方はやめてくれないか…」
「かばうことはないじゃない。私、あなたのことは認めているんだから」
猿姫の目を覗き込んでくる。
「あなたの棒術と身のこなしの方になら、お金を払う武家はどこにでもいるでしょうよ」
ぐらついた猿姫の心に付け込むように、目の前の女は続けるのだ。
「単なる武芸者、だと買い手はつきにくいかもしれないけれど。私が、忍びのいろはを教え込んであげましょう。そうしたら、あなたも引く手あまたになるよ」
今度は声を抑え、甘い響きを交えていた。
人に付け込むのが旨い。
三郎との旅の先に自分を待つ将来、それを猿姫としても思い描けないでいた。
そこに、彼女の心をぐらつかせるような事実を一子はぶつけてきた。
猿姫の心には、迷いが生まれている。
「今のままではね。あの根無し草の男たちの面倒を見させられて、一生が終わるかもよ」
一子は、猿姫の顔色を見ながらさらに言葉を添える。
猿姫は、唇を噛んだ。
彼女は背後の祠の中に、その三人の男たちを残してきている。
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