『手間のかかる長旅(110) 膳の作法。時子の確信』
作務衣の僧侶たちは部屋を去った。
時子(ときこ)たち一同はそれぞれ、車座になっていたままの位置にいる。
彼女たちの前にはそれぞれ、精進料理の膳が据えられている。
「よかったの?」
美々子(みみこ)が静かな声で言った。
一同は、美々子ではなくアリスの方に視線を向けている。
「何が」
アリスは美々子を見返した。
「何が、ってこともないけど」
美々子もいつになく勢いを控えている。
先に、藍色の僧侶は、アリスの前に屈みこんだ。
時子の位置からはよく見えなかったが、僧とアリスの視線とが合ったはずだ。
一瞬の猶予があった。
でも、アリスは彼が辞去するままにさせた。
アリスの探していた、件の僧侶。
それが彼であったはずだ、と時子は思っている。
他の皆も同じだろう。
それで、アリスの出方を待っているのだ。
「ご飯にするか」
アリスは美々子の顔から視線を皆に移して言った。
その顔は、無表情になっている。
喜びも悲しみも読み取れない。
「精進料理には作法があるにゃ」
アリスは声を高めた。
「作法って苦手」
美々子が相手する。
「簡単だにゃ。食事のときは、食事に集中すること」
「具体的にどうすんの」
「無駄口を叩かず、黙って食べるのにゃ」
「皆で会食に来てそれはないだろ」
「そういう作法だにゃ。食べ物に真摯に向き合うためにゃ」
アリスは決め付けた。
そう言い放ったアリスの顔を、美々子は静かに見ている。
「アリス、あんた、だんまりを決め込む作法を今、でっちあげたな」
アリスの方を見て、落ち着いた声で言った。
アリスは取り合わなかった。
彼女は視線を目の前の、膳の上に落としている。
「いただきますにゃ」
塗り箸を右手に取った。
精進料理の膳は、明るい色彩の食べ物から成っている。
アリスは食べ始めた。
美々子はため息をついた。
「私たちも食べよう」
彼女にうながされて、皆も三々五々、うなずいた。
時子も箸を取った。
無駄口を利かずに、黙って食べる。
アリスの先の言葉だが、精進料理の作法がそれを守ることだけで成り立つのなら、心安い。
時子は自分の料理を眺めた。
膳の上の限られた空間に、小さな皿と小鉢が、許される限りと言った風情で無数に載せられていて、賑やかだ。
小鉢の上の明るい色の食べ物たちを見ていて、時子の箸先は迷った。
表面のつるつるした豆腐状のもの。
胡麻豆腐だろうか。
柔らかそうで、わずかな振動で表面が小さく揺れている。
器の下に、小さな木の匙が添えられている。
すくって食べよという気遣いか。
せっかく箸を持ったのだから、このお豆腐は後の楽しみにしよう。
時子はそう思った。
四角い素焼きの皿に乗せられた、鰻の蒲焼きのようなものもある。
精進料理である以上、それは鰻を模した何かであろう。
見るからに甘そうなたれがかかっている。
節約生活の毎日で、もう長いこと鰻を食べていない、と時子は思った。
目の前にあるのは鰻ではないが、鰻の味を期待して食べてみよう。
紙を敷いた上に、天ぷらを盛った器もある。
天ぷらのひとつは見るからに海老に衣をつけて揚げた形だ。
海老ではありえない。
海老のかわりに何を使っているのだろう。
時子は想像をふくらませた。
時子にもわかった、ふわふわとふくらんだ、豆と野菜を練って出来上がったがんもどき。
がんもどきは昔どこかで食べたような、と時子はおぼろげな記憶がよぎるのを、おざなりに手放す。
複数の雑穀を用いたご飯。
根菜と茸の煮しめ。
透明に澄んだお吸い物。
膳の上で迷いながら、時子は目を楽しませた。
周りでは、友人たちが箸を使い、静かに咀嚼している気配を感じる。
それとなく、時子はアリスの方にまた、目をやった。
アリスもまた、無心の様子で膳と向き合っている。
食事だけに向き合う間、私たちは雑念からは解放される。
この食事は自分たちに与えられた、そういう行いの場なのかも。
時子は、遠慮がちに確信を深めた。
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