『手間のかかる長旅(016) 時子と警官、暗闘』
時子(ときこ)はじっと相手を見た。
警官は顔色を変えてこちらを見下ろしている。
彼は感情的になったのだ。
今いる場所から動こうとしない時子に、感情を動かされたらしい。
「さっさと上がってくる」
警官の怒声が降り注いだ。
普段の時子であれば、恐れおののいて、威圧する相手の命令に容易に従っていたかもしれない。
が、今までの警官の態度と比べると、時子はそれほどの畏怖を抱かなかった。
「早く来なさい」
警官が感情的な声をあげればあげるほど、時子は冷静になって相手を見ることができた。
「人の声が聞こえないのか」
動かない時子に業を煮やしたかのような、警官の口ぶりである。
そう言いながら、彼は土手の上で、体でこちらを威圧しながら立ち尽くしているばかりだ。
斜面を降りてくる様子はない。
時子は黙りこくったまま相手の方をうかがった。
「返事をしろ」
警官は何度も叫んだせいで、喉をおかしくしたか、その声を甲高く裏返らせた。
痛みがあったらしい、叫んだ後、顔をゆがめてその喉元に手をやったぐらいだ。
そこまでされても、時子は応じなかった。
相手の呼びかけを黙殺し、ただ目を大きく開けて見返した。
先ほどまでは、こちらからの言葉をことごとく冷たくあしらわれていたのだ。
相手からの要求に応じず、沈黙をもって応じる…それだけで立場が逆になったかのように時子には感じられた。
その気になれば、警官は土手を降りて来て腕力で時子を捕まえ、彼女を連行することもできるはずである。
彼はそれをやらない。
時子が思うに、警官にはそれをやるだけの口実がないのだ。
こちらに対して無理難題をふっかけて、警官の肩書きによって時子に同行を強いたのである。
時子は少しずつ冷静さを増していた。
このまま横で寝ている町子(まちこ)が目を覚ますまで、ずっと座っていよう。
あの警官の出方を見てやる。
相手の焦りがわかり、急に心に余裕が出てきたのだった。
「さっさと来ないと、こちらから降りていく」
警官が張り詰めた声をあげる。
時子は体を強張らせた。
安心したのは早かっただろうか。
だが今さら、相手に応じることはできない。
緊張して相手を見上げたまま動けない時子を、警官もまた立ち尽くして見下ろしている。
視線が合わさった。
お互い、相手の眼球を見つめ合った。
「…ちっ」
大きな舌打ちの音だった。
警官が、時子から目をそらした。
こちらに背を向ける。
止めてあった自転車にまたがる。
ペダルに足をかけ、ふくらはぎに力をこめ、こぎ始める。
ペダルは回転を始め、動力が生まれるに従って、自転車は前進を開始した。
警官は時子にも町子にも目をくれることなく、まっすぐ前を向いたまま時子の視界を横切って、土手を左手に走っていった。
その後ろ姿は次第に小さくなり、やがて土手の果てに消えた。
時子は息をするのも忘れ、警官を見送った。
時子の隣で、眠っている町子が身じろぎする。
「町子さん町子さん」
時子は町子の体を揺さぶった。
友人の体がゆさゆさと揺れる。
町子は、薄目を開けた。
「町子さん」
「時ちゃん」
町子は消え入るような声で応じる。
目覚めた。
時子は、起きている町子の体をさらに揺さぶった。
「どうしたの時ちゃん」
時子は町子を揺さぶり続けた。
言葉がうまく出なかった。
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