『相まみえる熊殺しと柔の強者』
心労からか、彼女の顔はげっそりと痩せていた。
「お願いします」
膝に両手をついて腰を曲げ、彼女は何度もこちらに頭を下げる。
いたましい、と彼は思った。
彼、餅田万寿夫(もちだますお)は、しばらく前から「熊殺しの男」と呼ばれている。
彼が通う私立高校の体育教師で生徒指導官、田中金治(たなかきんじ)は「熊」の異名で知られていた。
巨大で凶暴な熊。
その熊を仕留めた人間だから、熊殺し。
わかりやすい。
いざこざを起こした末、万寿夫は田中金治を人事不省の状態に追い詰めた。
もっとも万寿夫自身は、自分に物騒な評判がつくのは迷惑だ、と思っている。
「熊殺し」の異名を得てから、揉めごとに巻き込まれてばかりなのだ。
今もまた、新しい揉めごとに巻き込まれつつあった。
吉川加奈(きっかわかな)は一年生である。
もともと万寿夫と面識は無かったのに、今日、急に頼みごとを持ちかけられた。
授業が終わり、ようやく帰り道で間食が食べられる、と万寿夫が思っていた矢先である。
教室前の廊下で加奈に呼び止められた。
同じクラスの連中にこれ以上噂をたてられるのが嫌なので、慌てて万寿夫は加奈を連れて場所を移した。
校舎一階の階段裏に、人が二人立って話せるだけの空間がある。
物陰になっているので、人目につきたくない相談ごとのあるときはちょうどいい。
万寿夫は加奈をその場所に連れ込み、今は至近距離で顔を向け合っている。
「兄が、卒業したら傭兵になるって言うんです」
加奈は涙ながらに語った。
「自分には戦う以外に何の才能もないから、他の進路は考えられないって」
加奈の兄、吉川長持(きっかわながもち)の噂は、万寿夫も聞いていた。
長持は柔道部に所属している三年生で、少し変わった男だった。
まず、試合に一切出ない。
しかし、稽古では同じ柔道部内の誰も歯が立たないほど強かった。
他校、また大学柔道部社会人柔道部との合同練習においても、長持は乱取り稽古で負けたことがない。
小柄で痩せた体格の彼が、乱取り稽古の場で100キロを越える体格の選手たちをことごとく投げ、または締め技を用いて落としてしまう。
彼が何か柔道以外の技術を密かに使っているのでは、という噂さえあった。
「一生戦って生きたいから、傭兵になるって。お父さんとも、毎晩口論ばかりして」
加奈は声を震わせる。
顔を両手で覆った。
「傭兵で南米か中東の戦地に行って戦うって言うんです。そんなところへ言ったら、死ぬんでしょう?」
涙目で、万寿夫の顔を見上げる。
二人の距離は近い。
万寿夫はどぎまぎした。
「いや、別に死ぬと決まったわけではないんじゃない?」
万寿夫は苦し紛れに言った。
加奈は首を振る。
「犬死です。兄は卒業が近いのに進路が決まらなくて、混乱しているんです」
「そうかなあ」
万寿夫は長持と個人的な面識があるわけではない。
ただ噂で伝え聞く彼の異常な強さを信じるなら、たとえ戦場に立っても長持なら生き残れるのではないか、という気がする。
「それで、加奈さんは俺に」
「兄を倒して、気持ちをくじいて欲しいんです。傭兵なんかならないように」
嫌な役回りだ、と万寿夫は思った。
長持が自分で言うように、傭兵が彼にとっての天職かもしれないのだ。
なんでそれを他人の自分がむざむざぶち壊しに行かなければならないのか。
「お願いしますっ」
加奈が万寿夫の体にしがみついてくる。
加奈の腕と体が、柔らかな感触を伝えてくる。
人の目が届かないところだからいいようなものの、こんな状況を誰かに見られたらまずい。
「わかったから落ち着いて」
傭兵になりたい男の生き様とそれを邪魔したい妹の懇願とを天秤にかけて、万寿夫は妹の方を取った。
体育館内にある柔道場では、乱取り稽古の最中だった。
男女混合での乱取り稽古を行っている。
そんな中、特別に設けた一角で重量級の大きな男子柔道部員とばかりたて続けに組み合っている、小柄な長持がいる。
加奈に面影の似た、しかし研ぎ澄まされた刃物のような雰囲気の長持。
異様な光景だった。
圧倒的だった。
大柄な男たちが、ひとまわりふたまわり小さい長持につかみかかろうとするなり、床の上に叩きつけられる。
警戒して距離を取る相手には、長持の方から突進して組み付き、強引に自分の足元に引きずり込んでしまう。
体勢の崩れた相手は、床の上で長持の寝技にからみつかれ、餌食になった。
毒蛇だ。
小さい体格だが、柔らかく体のところどころに毒を隠し持っている、毒蛇。
相手を潰しては取替え、長持は次々に犠牲者を増やしていく。
柔道場の入口に立って長持の圧倒的な戦いぶりを眺めながら、感嘆の余り万寿夫はため息をついていた。
「餅田君、どうしたの?見学?入部するの?」
万寿夫と同じ二年A組に属する女子柔道部員、山中文(やまなかあや)が万寿夫に気付いた。
丸顔でぽっちゃりした女性で、人懐っこく性格が明るいので、クラスの人気者である。
彼女にもこれから起こることを見せなければならないのか、と思うと万寿夫は気が重かった。
「やあ山中さん」
「ハーイ」
文は片手を振ってみせる。
「山中さん、あのね、悪いんだけど…吉川先輩に取り次いでくれない?」
「えっ…」
文は一瞬ひるんだ。
長持が部内のどういう存在なのか、彼女の反応から万寿夫は理解できた。
「う、うん、ちょっと待っててね」
拒絶せずに応じる文の性格が、万寿夫は少し愛おしくなった。
文は長持が実戦さながらの激しい稽古を行うエリアに小走りで行く。
しかし近くには寄らず、いくらかの距離を置いて長持に万寿夫の来訪を告げた。
床に膝をついたままの長持が、万寿夫に厳しい視線を送るのが見えた。
万寿夫の背筋に、強い衝動が走った気がした。
立ち上がった長持。
息も絶え絶えの乱取り相手たちを捨て置いて、入口の万寿夫の方に歩いてくる。
万寿夫の全身が総毛だった。
ヒグマのような体格と凶暴性を兼ね備えた教師、田中金治に襲いかかられたときですら、今長持から感じるほどの圧力は無かった。
彼は、本物だ。
万寿夫は思わず唇を舐めていた。
「熊殺しの餅田か」
厳しい表情のまま、長持は入口のたたきに立っている万寿夫を見下ろしている。
遠巻きに、柔道部員たちが二人を注視している。
万寿夫は、口を開いた。
「吉川先輩ですね」
「そうだ」
「手合わせ願います」
万寿夫は単刀直入に言った。
長持の口角が上がる。
その表情に、生々しい喜びが見て取れた。
「来い」
万寿夫は靴を履いたまま、板の間の上の長持に襲いかかった。
万寿夫と長持、体格は同程度である。
戦いは一瞬で決まる。
そのはずだ。
万寿夫の技が当たりさえすれば。
万寿夫に迷いはない。
腰を落として構えた長持の下半身に、万寿夫は地面すれすれを走って体当たりを食らわせた。
長持の腕をかいくぐり、万寿夫の頭部と右肩がまともに相手の下半身にぶち当たる。
衝撃を受けた長持の体が、後方に大きく吹っ飛ばされた。
数メートル後ろで、長持は着地する。
再び、腰を落として構えた。
「効いたぞ」
笑顔である。
万寿夫は、相手に身を当てる瞬間に気付いていた。
長持は、万寿夫の体当たりを食らう瞬間に、己の重心を上半身に移動させている。
早い話が、宙に身を浮かせることによって、万寿夫の体当たりの威力を相殺してしまったのだ。
類まれな格闘センスである。
一介の柔道部員の実力ではない、と万寿夫は思った。
古武術の達人もかくや、という程の、対応の上手さである。
もしかすると、長持は古武術の達人なのかもしれない。
そんな疑いさえ万寿夫の脳裏に浮かんでくる。
「来い」
落ち着いた声が呼びかけてくる。
しかし、体当たりをいなされた以上、今の自分にできることはない。
どうすれば長持を負かすことができるのだろう。
万寿夫は珍しく、焦りを覚えていた。
握り締めた拳の中で、じわじわと汗が出始めている。
構えたまま射るような視線を送る長持の圧力に耐えながら。
万寿夫は冷静さを取り戻そうと努めていた。
降りかかる火の粉のみ振り払う、が自分の哲学だったはずだ。
なぜこちらが相手への攻め手を考えなければならないのだ。
負担は相手に押し付けるのが常勝の手である。
「次は先輩の番じゃないんですか?」
口を開いた万寿夫は、思い切り、嘲る調子を込めた。
長持が、それなりに自尊心の強い人物であることを願う。
何の武道の経験もない、後輩相手にあなたは待ちの一手なのか?
そういう意味合いを、万寿夫は短い言葉に込めたつもりだ。
馬鹿でなければ、それだけの意味を理解する。
頭が良すぎれば、万寿夫の計略の意図を読み取ってしまう。
万寿夫は、ほどほどの知性を長持に期待した。
長持は、顔を上気させる。
万寿夫にとって、幸運だった。
長持は、開いた両手を胸の前に置き、床の上を滑るような大股の動きで万寿夫に向かって突進した。
つかみかかる動き。
ほんのわずかに、脇が甘くなっている。
そこには、万寿夫がかいくぐるだけの余地があった。
万寿夫と加奈は、ファミリーレストランのテーブル席にいる。
二人は肩を並べて座っている。
ビュッフェ形式は、万寿夫がこの世でもっとも好きなもののひとつだ。
今日の万寿夫は、玄米パン、豆腐ハンバーグ、ゆで卵、ごぼうサラダ、フルーツヨーグルトをテーブル上に並べてご満悦である。
長持を倒した礼として、加奈のおごりなのだった。
「お兄さんもご一緒できたらもっとよかったね」
窮地を脱することができた万寿夫は、興奮状態で浮かれている。
何から食べようか、と迷っている彼の肩に、加奈は寄りかかった。
加奈は泣いていた。
彼女の兄、長持は、その日のうちに傭兵になる夢を捨てた。
長持は、彼を畏敬する柔道部員たちの前で、大の字になって気絶したのだ。
「加奈さん…」
万寿夫の肩にすがって、加奈は泣きじゃくる。
「浮かれてごめんね…」
万寿夫は、加奈の肩を抱いた。
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