『片桐且元』曽根勇二
私、大河ドラマで毎週欠かさず見てるのって、今の『真田丸』が初めてなんですよね。
戦国時代、安土桃山時代の人物には詳しいつもりだったのですが。
改めて大河ドラマを通しで見ると、「この人のこと、よく知らない」という人物にも出会うわけなのです。
そんな中でも、私が特に関心を持った武将がいます。
曽根勇二氏の著作です。
『片桐且元』。
『真田丸』では俳優の小林隆氏が演じる、人の良さそうな片桐且元(かたぎりかつもと)でした。
実際はどんな人物だったのか、知りたかったのです。
本能寺の変の後。
豊臣秀吉(とよとみひでよし)は政敵だった柴田勝家(しばたかついえ)を相手に、琵琶湖の北岸付近で勃発した「賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)」に勝ちました。
この戦で活躍した「賤ヶ岳の七本槍」と言われる秀吉の小姓の中に、加藤清正(かとうきよまさ)、福島正則(ふくしままさのり)らと並んで片桐且元もいます。
時代を遡ると、且元の家は父の代から北近江の浅井家に仕えていました。
それが浅井家滅亡後、他の多くの浅井家家臣たちと共に、且元は秀吉に仕えることになったのです。
武勇だけでなく対人交渉などの能力に秀でた且元は、順調に出世していきます。
同輩の加藤清正たちと違い、且元は大名にまでなる時期は遅くなりました。
けれども畿内に小規模な所領を得ながら、豊臣家の中枢にい続けたのです。
関ヶ原の戦で、豊臣家を支える人材だった石田三成(いしだみつなり)が没しました。
これにより三成に変わって、且元が豊臣家を支えることになります。
その背景には「他に人材がいなかった」だけでなく、官僚としての且元の優れた行政、外交手腕によるところが大きかったようです。
関ヶ原後の豊臣家の施政を代表する人物が、且元です。
豊臣家は武家の代表であるだけでなく、朝廷、公家とも強い関係を維持していました。
そうした幅広い豊臣家の外交を可能にしたのが、且元の手腕だったのですね。
徳川家康(とくがわいえやす)は後に豊臣家を倒して天下人を目指すことになります。
その家康が、且元を自らの家臣として取り込もうとしたのも、彼の巨大な利用価値を見越してのものでした。
家康は関ヶ原の戦後に勢力を拡大させていきますが、豊臣家が備えていた公家、寺社等各勢力との交渉能力にはまだまだ劣っていたのですね。
本書では秀吉没後、強大な存在になっていく徳川家に従属しながら、なお豊臣家の存続を願い奔走する且元の姿が説明されます。
自らが新しい時代で上昇するために、徳川家の家臣になることには、何のためらいもない。
しかし彼ら豊臣恩顧の大名は、豊臣家から徳川家の傘下に移る選択を取りながら。
なおも旧主である、豊臣家への忠誠を忘れませんでした。
この辺りは、『真田丸』でも描かれていたところですね。
豊臣から徳川に移っても、彼らは豊臣家が行き残るための尽力を惜しまなかったのです。
徳川方の方針により、且元は徳川と豊臣の板ばさみになり、最終的には豊臣を切り捨てざるを得ない立場に追い詰められますが…。
本書を読むと、且元が難局を乗り切る能力に欠けたのでなくて。
有能な彼をもってしても極端な選択を取らざるを得ないほど、情勢が難しすぎたのだと理解できます。
『真田丸』では人が良くて間が悪く、追い詰められると胃痛を起こしてしまう軟弱な人物と受け取れるようなキャラクタ付けでしたが…。
実際の且元は、戦国から安土桃山時代を通しても筆頭に挙がるほどの、骨太で頭のキレる武将だったのではないかと。
私は、そうした人物像を思い浮かべました。
有名な「方広寺の鐘銘」の一件にしても、且元は徳川家相手にある種ふてぶてしい開き直った態度を取ってまで、豊臣家の立場を守ろうとしていたのですね。
戦国武将として、片桐且元、非常に魅力的な人物でした。
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