手を合わせる。つわものの名残りと港町。神戸市の旅(2)

史跡にあふれた兵庫の街。

新川運河の水門を脇目に通り過ぎ、さらに歩きます。

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先の水門の近くに、こんな界隈があってですね…。

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清盛塚というそうです。

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大きな十三重の仏塔があるのです。

こちらを圧倒する迫力がありますね。

従来、この塔は清盛塚と呼ばれ、平清盛公の墓所だと考えられてきました。

大正時代、道路拡張のためにこの仏塔も十数メートル離れた位置から現在の位置に移転されたのです。

その際の調査で、この仏塔は実は墓所ではなく供養塔であるということがわかったのだそうです。

つまり、清盛公の遺骨は出てこなかったのですね。

先にお参りした能福寺の平相國廟もそうですが、平清盛公の墓所と伝わる場所は兵庫を含め各地にあって、どこに清盛公が眠っているのかは諸説あるんですね。

偉大な人物の墓所が特定できないのは残念なようでもあるし、また妄想する余地があって楽しみでもあるところです。

仏塔に手を合わせました。

 

また清盛塚のすぐ近くに、真光寺という時宗のお寺もありまして。

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時宗の開祖、一遍上人が眠られている廟所が境内にあるのです。

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鎌倉時代伊予国の豪族河野氏に生まれ、出家して諸国を巡りながら踊り念仏を広められた一遍上人

その教えは当時の武家、庶民を問わず、多くの人々の間に根ざしました。

上人はその教えに賛同する人々、主には庶民を引き連れて、日本各地を遊行したのです。

その遊行の最中、上人はこの兵庫の地で入寂されたということです。

この兵庫の地に眠られていたとは、一遍上人に関心のあった私も、知りませんでした。

これも出会いです。

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廟所にお参りして、手を合わせてきました。

お盆ということもあってか、真光寺境内にはお参りの方が多く来られていました。

 

今度は海沿いの土地を経由して、東に向かって行こうと思います。

当初の目的地であった湊川神社まで、歩いて行くわけなんです。

長い歩き旅になりそうです。

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清盛塚の向こうにある大和田橋を渡り、中之島に上陸します。

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太平洋戦争時、空襲の最中に水を求めてこの橋の下に逃げ込んだ人たちが、火に巻かれて大勢犠牲になりました。

橋脚の一部に、今でも戦火の跡が残っているそうです。

橋の向こう、中之島側の川べりに、犠牲者の慰霊碑もありました。

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橋の上から見える、大和田水門に描かれたキャラクタ「ハットン」の姿を見て、少し心を落ち着かせました。 

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また、橋の上には1995年の阪神大震災で崩れ落ちた橋脚の一部が展示されています。

渡っていて、厳粛な気持ちになる大和田橋です。

慰霊碑に向かい、遠くから手を合わせました。

気持ちが沈んできました。

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兵庫は、三宮と須磨のだいたい中ほどにある土地なのですね。

今日はいい天気です。

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道沿いにあった浄土宗のお寺、阿彌陀寺にもお参り。

境内の池の中に、平清盛公が魚の供養をするために建てた「魚の御堂」の礎石と伝わる巨石が配置されています。

この巨石、南北朝時代足利尊氏(あしかがたかうじ)がその魚の御堂で楠正成の首を改めた所以で「楠公供養石」とも伝わっているそうです。

安土桃山時代、大名の黒田長政(くろだながまさ)から兵庫の商人鷹見氏の手を経て阿彌陀寺に寄進されたということです。

…と、現地の案内板に書かれていました。

このお寺に件の石がある経緯が複雑で、こうやって自分で内容を記していても意味がわかりづらいですが、ともかくも敬愛する楠公さんの最期に関わる史跡だということでお参りしてきたのです。

巨石に手を合わせました。

 

阿彌陀寺から歩いてすぐの場所に、神戸市卸売中央市場があります。

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東京の築地市場のような場所なんですね。

ただこちらは、関係者以外場内立ち入り禁止ということで、見学はかないませんでした。

小売もしていないそうで、一般客は買い物もできないんですね。

併設の専門店街と飲食店街は一般客の利用もできるみたいです。

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ただお盆期間のせいか、その食品店街専門店街のお店も軒並み閉まってました。

そろそろお昼時が近づいてきたので、出来たらここでご飯を食べてもよかったのですが…。

まあ、神戸市内にはご飯を食べられる場所が多そうなので、焦ることもないのです。

今は空腹を押して歩いて参ります。

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中央市場のすぐ横には、海!

港の風情を味わいました。

兵庫津の跡地だけでなく、現在の兵庫港の姿も見ておきたいものです。

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脇道に入り、海側の道に向かいます。

鍛冶屋町という地名なんですね。

かつてこの周辺に鍛冶屋さんがいたことを想像させますね。

倉庫の多い界隈で、傍にはコーヒー豆業者の倉庫があって、コーヒーの素晴らしい香りが周辺に漂っています。

コーヒーが飲みたくなってしまいました。

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海側に来ました。

港と言いますか、造船所のドックが海側に設けられています。 

明治時代の神戸港開港以前からあった兵庫港神戸港の一部となり、造船業神戸港の発展を支えてきたのですね。

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造船所界隈から、海を見ることができました。

対岸の中央市場側に停泊している船を見て、ようやく港らしさを感じました。

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港湾部近く、住宅街の道沿いに、石碑が見えます。

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高田屋嘉兵衛 本店の地」だそうです。

蝦夷地(現在の北海道)での貿易と漁場の開発等で財を成した廻船業者、高田屋嘉兵衛(たかだやかへえ)はかつて、この兵庫津界隈を本拠地にしていたのですね。

淡路島出身の嘉兵衛は、若い頃に兵庫津に来て船頭となり、資金を貯めて「辰悦丸」という大型船を買い入れました。

この辰悦丸を使って兵庫津、東北、蝦夷地を結ぶ廻船業を始め、莫大な富を築いたのです。

嘉兵衛は国後島沖を航行中にロシア船に拿捕された後、ロシアへの連行と抑留の憂き目に遭い、その間に「ゴローニン事件」の解決にも一役買っています。

私も嘉兵衛のことはよく知らなくて、この記事を書くために調べてみたのですけれど、面白い人物ですね。

北海道の函館港の発展にも嘉兵衛の功績が大きかったんだったそうです。

また作家の司馬遼太郎が、嘉兵衛を主人公に『菜の花の沖』という長編小説を書いているそうで。

私も一度読んでみたくなりました。

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高田屋嘉兵衛の本店跡から、いよいよ湊川神社に近づいていきます。

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