『瞬殺猿姫(45) 差し向かいになる二人、猿姫と神戸下総守』

猿姫(さるひめ)は妙な気配を感じて、振り返った。

畦道に、編み笠を被り、脚絆を履いた武士が立ってこちらを見ている。

猿姫は農家の夫婦と共に鍬で畑の土を掘り返し、耕していたところだ。

春の気配が迫った、しかしまだ底冷えの残る朝。

尾張の織田の刺客か、亀山の関家の刺客か。

一瞬緊張したが、相手の武士は猿姫の顔を認めて軽く会釈をした。

刺客らしい殺気は感じない。

何だろうか。

念のため鍬を手にしたまま、畦道の方に降りていった。

「何でございましょう」

用心深く声をかけた。

猿姫は農家から借りた野良着をまとい、ほおかむりをしている。

農家の娘にしか見えない。

相手が面倒なら相手なら、自分の身の上をごまかしてやり過ごそうと思った。

「猿姫殿ですな」

聞き覚えのある声だ。

猿姫は相手の顔をよく見た。

「これは」

面識がある。

いまだ歳若い、しかし気品のある顔立ち。

半年前に白子の港近くで別れた、神戸下総守利盛(かんべしもうさのかみとしもり)だ。

下総守は神戸城主だったが、主筋にあたる亀山の関家に神戸城を奪われている。

猿姫にこの農家での仕事を紹介した後、やり取りは途絶えていた。

「下総守殿」

「しばらくであった」

成り行きに気付いた夫婦が、慌てて駆け出してきて畦道の脇に膝を着いた。

神戸城を奪われた後も、この農家を含め北伊勢の大部分の田畑は神戸家に属している。

依然、下総守は領主なのであった。

「ご無事で」

猿姫は旅装の下総守の顔を懐かしく見た。

「お互いにな」

下総守は親しみを込めた目で猿姫を見返している。

それから、彼は畦道の脇に膝を付いている農家の夫婦に目をやった。

「しばし、猿姫殿を借りたい。二人で話がしたいのだ」

農家の主人は、一も二も無くうなずいた。

 

下総守の指示で、夫婦は畑での耕作に戻る。

猿姫は鍬を畑の端に置き、下総守を伴って、母屋に帰ってきた。

二人で薄暗い家屋の中に入った。

梁の上から、おぼろげな日の光がわずかに注ぐ明るさである。

猿姫にうながされ、下総守は編み笠を取って縁台に腰掛け、草鞋を脱ぐ。

板の間の上を進み、囲炉裏の前に落ち着いた。

大小二本の刀を傍らに置いた。

猿姫の方は土間に立って考えている。

お湯でも沸かそう、と思う。

土間の壁際に設けられた水屋棚から鉄瓶を取り、水がめから柄杓で水を移した。

鉄瓶を持ち、前を向いたまま、草鞋を脱いで板の間に上がった。

下総守の囲炉裏を挟んだ向かい側に座った。

囲炉裏の中の五徳の上に鉄瓶を置く。

火箸を取って炭をいくつか、五徳の下に差し入れる。

灰を掘り起こして、火種を探し当てた。

五徳の下の炭の中に、火種を押し込む。

ひと通りのことをし終えて、息をつけた。

楽にしようと、頭に巻いたほおかむりを解いた。

ここ半年で伸びた髪が、両肩と背中に落ちてかかる。

下総守が注意を引かれて、猿姫に視線を向ける。

彼女の長い黒髪、そして顔をじっと見た。

猿姫は思わず視線を逸らして、咳払いする。

半年前に下総守と面した際には、念入りに化粧を施していたはずだ。

今は素顔を見られている。

普段から化粧をしない猿姫も、相手の視線を受けるのが苦しい。

しばらく黙って五徳の下の熾火を見つめた。

下総守も視線を囲炉裏に向けた。

自分の顔から視線が離れたので、気が楽になる。

「お茶、とは行かないが。二人でお白湯を飲もう」

「お白湯で結構。もはやお茶をいただくような身分でもない」

猿姫は何と返していいかわからない。

うつむいたまま、相手の顔を見ないようにする。

火箸で灰を掻いた。 

また下総守からの視線を感じる。

「…今日も共を連れずにお一人で」

そう口にした。

下総守は畑の畦道に、一人で立っていた。

領主としては考えられないことだが、神戸城を失って以降、下総守には随行する家臣もいなくなってしまったのかもしれない。

「いや、小姓と共の者は離れた場所に待たせてある」

予想よりも軽い調子の答えが返ってきた。

「家臣が戻ってきているのか」

「何、皆が皆ではないがな。先の戦で戦死した者も多ければ、関方に走った者も多い」

「そうか」

猿姫は、息をついた。

皆が別れて以降、下総守からの音沙汰は無く、孤立したまま行き倒れているのではないかと思っていたのだ。

戻ってきた家臣がいるだけでも幸いだろうと思う。

「下総守殿、今はどこに住んでいるんだ」

「あちらこちらと。幸いなことに、関方にも与せず我が手元に残った家臣があまたいる」

猿姫の問いをはぐらかすように、下総守は言った。

なるほど、と猿姫は思う。

現在の本拠を曖昧にしておきたいのかもしれない。

「とにかく居場所があってよかった」

素直な気持ちで、それだけ言った。

下総守が笑う気配がする。

猿姫は顔を上げた。

囲炉裏の五徳の下でじわじわと燻る熾火に視線を落としながら、下総守は儚い笑みを浮かべている。

「どこへ行っても落ち着かぬ」

「それはそうかもしれないな」

農家に雇われて住み込みで働いている猿姫は、己の境遇を思った。

自分は慣れないながら畑仕事がこなせ、夏には泥鰌捕りもできる。

城を失った武家の下総守は、家臣たちの居候となって、毎日何をしているのだろう。

彼が茶の湯の道に秀でていると言って、毎日茶の湯を家臣に飲ませて過ごすわけにもいくまい。

首をかしげながら、猿姫は熾火の具合を見つめた。

勢いは、なかなか強くならない。

 

二人で向かい合って座ったまま、お湯が沸くのを待っている。

わざわざ訪ねてきたはずの下総守が、言葉少なだ。

猿姫にかける言葉を探している、という風でもない。

自然に、ただ彼女と差し向かいで座っている。

囲炉裏の中の熾火で、二人の顔が照らされている。

猿姫の中では、神戸城で起こったことの諸々の記憶は、半年の間に薄れている。

下総守の心中を、察しかねた。

「織田三郎殿から音沙汰はあったか」

ふいに声をかけられて、猿姫は顔を上げた。

「いや。でも、最近こちらから文を送ったので、じきに返事があると思う」

一週間前に、充分な路銀が溜まった旨の文を、白子の港にいる織田三郎信長(おださぶろうのぶなが)宛てに送っている。

半年の間、下総守のことも三郎のことも、気にはしながら何ら連絡を取らなかった。

農家での暮らしが、思ったよりも自分に馴染んでいたせいかもしれない。

「やはり織田三郎殿と、南伊勢に行くか」

視線を落としたまま下総守は言った。

「そのつもりだ」

「そうであろう」

妙な相槌だ、と思う。

「三郎殿と旅するのは、楽しいかな」

これも妙だ。

「考えたこともないな。いつも尾張の追っ手のことを警戒して、人質の髭が逃げないように気をつけてもいる」

「髭。ああ、蜂須賀殿か」

猿姫が木曽川べりで拉致した斎藤家の武将、蜂須賀阿波守(はちすかあわのかみ)も今、三郎と共に白子の港で働いている。

元気にしているはずだった。

「うん。三郎殿と髭を連れて、追っ手を気にしながら旅しているんだ。気の休まることがない」

「そうであろうな」

「考えたこともなかったけれど、でも楽しいか楽しくないかと言えば、楽しい方なのかも」

下総守と熾火を前にして、自分の頭もぼんやりし始めているのかもしれない、と猿姫は思った。

「城住まいよりも、旅がよいか」

「うん?」

猿姫は首をかしげて、下総守を見た。

下総守と、目が合った。

不思議な目の色をしている。

一瞬、猿姫の体が強張った。

「当方と二人で城住まいをするよりも、その旅の方がよいか」

「えっ」

この男は何を言っているのだ、と猿姫は思う。

 

今の彼は、居城であった神戸城を関家に奪われ、家臣の下を転々とする立場だ。

その身の上に、付き合えと言うのだろうか。

「貴殿と二人で城住まい…?」

「うむ」

こくり、と向かいの若者はうなずいた。

妙な気配を持っている。

「それは何というか…見当もつかない」

猿姫は率直に言った。

「私も三郎殿も、旅を続けることしか考えていないんだ」

まだ返事の文も寄越さない三郎の心情を、忖度した。

「そうか」

下総守は、小さなかすれ声で応じる。

視線が再び囲炉裏に落ちた。

猿姫も同じく視線を落とした。

「…こうなった以上は、意地でも貴殿らを送り出そう」

独り言に近いものだった。

かねてからの予定通り、南伊勢への猿姫たちの旅を後押しするという意味だろうか。

「あ、それは。かたじけない」

猿姫は気の利いた返事を思いつかないまま、如才なく答えた。

下総守が何を目的に自分に会いに来たのか、いまだ要を得ない。

お湯もまだ沸かない。

今日は妙な日になりそうだ、と猿姫は思った。

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