『瞬殺猿姫(2) 堺を熱く語る三郎と猿姫』
こいつのせいで考えがまとまらない、と猿姫(さるひめ)は苦々しく思った。
目の前で、彼女の連れがあぐらをかいている。
織田三郎信長(おださぶろうのぶなが)である。
三郎は、尾張の国を治める領主、織田家の一族出身の若者である。
この三郎のまとう上等な絹の羽織が、さっきから猿姫の考えを乱している。
彼の羽織には、猿姫が口にするのもはばかられるような、いやらしい絵柄が刺繍されているのだ。
いやらしい絵柄が刺繍された、上等な羽織。
そんな羽織を着て、三郎は深刻な顔で、猿姫に今後のことを語りかけてくる。
「もはや、進退きわまってござる」
頭を片手で押さえながら、三郎はうめいた。
空いている片手で、むしろの上から茶碗を取って、白湯を口に運んだ。
「確かに、ここを織田勢が突き止めるのも時間の問題だろう」
三郎の羽織から目を逸らしながら、猿姫も相槌を打った。
猿姫と三郎は、那古野の街外れにある、古寺にいる。
境内の、朽ち果てた庵に隠れていた。
天井が小さく破れて、隙間から星空がのぞいている。
二人は三郎の実家である、織田家から追われる身なのだ。
織田家の当主は、三郎の弟である織田弾正忠信勝(おだだんじょうのじょうのぶかつ)である。
彼と敵対した以上、二人が尾張国内にいるのは危険なのだ。
「遠江に行こう。私の以前の奉公先だ」
猿姫は、三郎の下品な羽織から目を逸らしたまま、提案した。
「松下様という武家がある。この私も、そこではわりと気に入られていたのだ」
猿姫は息をついた。
「あそこに居れば、織田弾正忠もやすやすと手出しはできまい」
猿姫は那古野の中々村の生まれだが、つい先日までは遠江国の武家、松下家に仕官している。
松下家は、「東海一の弓取り」と巷で称される大大名、今川家の家臣の家柄である。
今川家は、力関係で言えば、織田家を凌駕している武家だ。
その配下の松下家に二人で転がりこめば、織田家も下手な手出しはできない。
「東は駄目じゃ」
猿姫には意外なことに、三郎は結構な勢いで抗議して返した。
「どうして」
猿姫は不機嫌に眉をひそめ、片頬をふくらませた。
額の広い顔の猿姫がそうすると、機嫌を損ねた子猿じみた表情になる。
彼女が猿姫と呼ばれる所以だった。
「猿姫殿、昔から、新しい物は何でも西から来まする。であれば、西へ向かうべきじゃ」
「いや、でも三郎殿、私たちは…」
「東へ行っても、俺たちに明日はない」
三郎は熱弁を振るった。
同時に、傍らに置いた彼愛用の武具、鉄砲の腹を手の平でぽんぽんと叩いている。
彼の鉄砲は、南蛮由来の武具なのだ。
ここ数日を三郎と共にするうちに、彼が南蛮狂いの男なのだと猿姫もわかり始めていた。
彼は、異国に憧れているのだ。
「三郎殿。そうは言うけれど、西につてでもあるのか?織田勢は今にも我々に迫っているんだぞ」
猿姫は、三郎の顔を覗き込んだ。
「堺に参りましょうぞ」
三郎は、落ち着いた声で言った。
「堺…?」
生まれ育った尾張国とその隣の三河国、さらにその先の遠江国ぐらいになら。
猿姫は土地勘がある。
しかしそれより先の土地には彼女は疎い。
西も東も。
ただ、堺の名ぐらいは知っていた。
堺。
武家の影響力を排除して、商人たちが独自に治める、大きな港町である。
現在、名目上は日本国の支配者である、室町幕府。
その室町幕府を凌駕して巨大な権力を持つ、三好家という武家がある。
山深い四国の阿波国を本拠とするこの三好家は、豊かな堺の町との関係を強化することで、その地位を確かなものにした。
大きな船が接岸できる港と、湾岸に数多くの蔵を備える堺。
日本一の規模を持つ港町なのである。
そんな堺に、国内外の産品が、自然と集まってくる。
物が集まるところでは、金銭が動く。
それだけに、この堺の商人たちと良好な関係を築くことができた武家には、想像を絶する経済力が約束されるのだ。
三好家の当主である三好長慶(みよしながよし)は、他の武家に先駆けて堺の町との関係を強化することに成功した。
堺の豪商らの権益を武家として保護する見返りに、金銭的に莫大な支援を受けている。
その莫大な金銭的支援の故あって、長慶は室町幕府を凌駕するに至ったのだ。
「それはわかったが、私たちがその三好家びいきの堺に行って、何の得がある?」
猿姫は、演説する三郎をひややかな目で見ていた。
「堺の豪商、もしくは三好家にわたりをつけることができれば、我々の立場も安泰」
三郎は引き続き、熱心に語る。
「我々の想像もつかぬ世界中の品物が集まっている堺の町でござる」
「うん…」
猿姫も、品物が集まっていること自体を否定するつもりはなかった。
「そこへ行けば、我々の視野も開けましょう」
続ける南蛮狂いの三郎の鼻息は荒い。
「そうかなあ」
世界中の品物が集まっていると聞かされては、猿姫の言い返す気力は弱まった。
彼女にしても、そうした品々を見てみたい気持ちはある。
「こんな尾張の田舎を手中にして調子に乗っている織田弾正忠など、もう目ではござらぬ」
三郎は熱弁を振るった。
猿姫は、そんなものかな、と思う。
弟である弾正忠に故郷を追われることになっても、なおここまでの威勢を保っている。
その気迫だけは認めてやらなければ、と猿姫は三郎の顔を見ながら思った。
翌日、朝早くに古寺を後にした二人は、昼前に雄大な木曽川のほとりにたどり着いた。
追っ手の姿はまだ見えない。
「船を手配して、白子の港に向かおう」
猿姫は、傍らにしゃがみこんで息を切らせている三郎にささやいた。
三郎は、弱りきっている。
徒歩の旅に慣れたうえ、愛用の武具である木製の棒一本を背負っただけの猿姫である。
対して三郎は歩き慣れていないうえに、大小の刀二本と鉄砲とを携えている。
その重さで、彼は消耗しきっていた。
二人の計画では、ここから船を手に入れて、伊勢国の北部にある白子の港に上陸する手はずになっている。
「そこで休んでいろ。私が船頭に話をつけてくる」
そう言って船着場に向かおうとした猿姫の手首を、背後から三郎がつかんだ。
「待ってくだされ」
猿姫は振り向いた。
三郎は彼女の手首をつかんだまま、のろのろと立ち上がっていた。
「ここで置いていかれたら、このまま貴殿がいなくなりそうな気がしてならぬ」
「馬鹿な、私はそこまで薄情じゃない」
笑い捨てて三郎の手を振りほどきながら、思いもよらず真剣な彼の表情を目にした。
猿姫は、口元から笑みを引っ込めた。
「…そこまで薄情じゃないし、行き場がないのは三郎殿同様」
「ならば、一緒に参ろう」
三郎は、真剣な目で猿姫を見ている。
思わず、猿姫は目を逸らした。
逸らした視線の先に、依然として下品な三郎の羽織があった。
「三郎殿、そろそろその羽織、着替えたらどうなんだ」
「え」
「その絵柄、目の遣り場に困る」
「しかし拙者のお気に入りでござる」
三郎は大きな顔をしている。
猿姫は三郎を突き飛ばして船着場に向かった。
三好一族と織田信長 「天下」をめぐる覇権戦争 (中世武士選書シリーズ第31巻) 新品価格 |