『瞬殺猿姫(4) 二者から歌を強いられる猿姫』
尾張国の農民の生まれである猿姫(さるひめ)。
彼女は棒術の達人である。
猿姫と同じ国の武家の生まれである織田三郎信長(おださぶろうのぶなが)。
彼は南蛮渡来の武器である鉄砲を使える。
二人とも故郷を追われ、今は行く先も知れない、長い旅の途中にいる。
「不吉だ」
蜂須賀阿波守(はちすかあわのかみ)は、二人に聞こえるか聞こえないか。
それぐらいの小声で、聞き捨てならない縁起の悪い言葉を繰り返している。
阿波守は尾張国に隣接する美濃国の領主、斎藤家の家臣であった。
木曽川のほとりで猿姫と戦った彼は、手酷く痛めつけられて負傷した。
今は、後ろ手に手首を縄で縛られ、船底に転がされている。
「貴様、うるさいぞ」
猿姫は阿波守を怒鳴りつけた。
帆を持たない渡し船の後方に、彼女は体を前方に向けて、斜めに立っている。
背中に愛用の棒を背負ったまま。
船尾に備え付けられた長い櫂を両手で持ち、体の重心の位置を波に合わせて調整しながら。
巧みに海面を切っている。
彼らは海の上にいるのだ。
天候は良く、穏やかな波が、船体を揺らしている。
猿姫の目前、横たわる阿波守のさらに先には、三郎が座っている。
鉄砲の入った袋は膝の上に置いて、両手で押さえている。
彼は進行方向に背を向けて、阿波守と猿姫の方を見ていた。
「不吉である」
阿波守は執拗に続けた。
猿姫の棒に打ち据えられて負傷を負いながら、弱りもしない。
ふてぶてしさを見せている。
船を漕ぐのに忙しい猿姫は、舌打ちをした。
「貴様、黙らないか。三郎殿、その髭面を少しばかりいたぶって黙らせてくれ」
声をかけられた三郎は、困惑した顔つきになった。
「しかし、猿姫殿…」
「気が散るんだ」
猿姫は、顔をしかめて三郎を見た。
まるでこれまでずっと船頭でもしていたかのように、渡し船をうまく操る猿姫である。
しかしこれで、船を操るのも海に出るのも初めてなのだ。
常人離れした運動神経の良さに任せて、舵取りをこなしてはいる。
だが内心は、緊張していた。
本来は川を渡るための小さな船で、大海に挑戦しているのである。
一瞬の不注意が、致命的な失敗に繋がりかねない。
「何が不吉なのか、拙者気になります。阿波守殿、どういうことでござる」
「よせ、気にするな。相手にするな」
阿波守の策略かもしれない、と猿姫は思った。
木曽川の船着場で阿波守を倒した後、彼を人質にして渡し船を強奪した。
弱った阿波守の手を縛り船底に放り込んで、猿姫と三郎は乗り込んだ。
そのまま、海に漕ぎ出してきたのだ。
「何が不吉なのでござる」
三郎は猿姫の忠告を振り切った。
前屈みになって、船底の阿波守の髭にまみれた顔を覗き込んでいる。
船を漕ぎながら、猿姫はため息。
「女に船頭をさせて海に出てくるなど、前代未聞。不吉だ」
三郎の方に顔を向けて、阿波守は不吉な口調と顔つきで言った。
猿姫はいっそう顔をしかめる。
「で、ござるか」
三郎は阿波守の言葉に相槌を打った。
「ああ。不吉だ。その女をさっさと海に叩き込んで、お主が櫂を持て」
「でなければ」
「今に嵐が来て、船が沈むことになるぞ」
阿波守は三郎を脅しつけた。
「で、ござるか」
「うむ」
座ったまま、三郎は猿姫の方に視線を移した。
思案顔だ。
猿姫は驚いて三郎の顔を見返した。
「な、なんだ。まさか、そんな男の口車に乗るのか」
「いやいや、そんな」
三郎は首を横に振った。
「ただ、阿波守殿がこう言うからには、故ないこととも思えませぬ」
落ち着いた声で言う三郎に、猿姫は言い返せない。
船に女を乗せて海に出ると、縁起が悪い。
由来は知らないが、猿姫もそんな話は聞いたことがあった。
「ではどうする」
「拙者が貴殿と代わろう」
「三郎殿、船が漕げたのか」
「いや、やったことはないが、何とかなりましょう」
「おとなしく座っていろ」
猿姫は短く言い放った。
自分だから、初めてでも何とかなっているのだ。
三郎を黙らせて、しばらく猿姫は無言で船を操った。
女の自分が船を漕いでいることを不吉と言われ、心の収まりが悪い。
阿波守は、いまだ縁起の悪いことを小声で言い続けている。
「黙って船を漕いだら不吉だ」
それとはなしに、猿姫の方を見ながらつぶやいている。
その言葉は、黙って船を漕いでいた猿姫の気に触った。
「いい加減にしろ。こっちは船を漕ぐので精一杯だ」
「それはお主の勝手だ。だが船頭が船歌も歌わずに船を漕ぐなど、聞いたことがない」
強気に返す阿波守である。
猿姫は口をつぐんだ。
そう言われれば、そうなのかもしれない。
「不吉だ」
それだけ言って、阿波守は黙った。
阿波守の言葉を、三郎も聞いていた。
彼は不安そうな顔で猿姫を見ている。
歌え、という目である。
「私は船歌なんて知らない」
猿姫は弱りきって言った。
「この際、何でもいいから知っている歌を歌ったらいかがでござる」
「弱ったな」
猿姫は、歌には疎いのだ。
「猿姫殿のお里にも、いろいろと歌があったのでは」
猿姫の顔色を見て、三郎は助け船を出した。
「そう言えば、田植えの歌ぐらいは覚えている」
那古野の、百姓の家に生まれた猿姫である。
幼い頃から折々に、家の者、村の者たちが歌う田植えの歌を聞いていた。
「お田植え歌、よろしいではござらぬか」
三郎は目を輝かせた。
「猿姫殿のお田植え歌、拙者、聞きとうござる」
「でも、自分で歌ったことはないんだ、子供の頃に里を出たから」
「猿姫殿は初めてでも船を漕げるぐらいだから、お田植え歌などわけなく歌えましょう」
三郎は食い下がる。
どうあっても歌わせる気なのだ。
阿波守に脅されたせいなのか、三郎が猿姫の歌を聞きたいからなのか。
「猿姫殿、船頭が歌わねば、具合が悪うござる」
阿波守の口ぶりを真似るように、三郎は猿姫に迫った。
阿波守も、三郎に同調するかのように、無言で猿姫を見据えている。
歌い慣れていない猿姫も、追い詰められた。
仕方が無い。
櫂を操りながら、猿姫は破れかぶれになって歌い始めた。
船を操るのに合わせて、聞き覚えのある田植え歌の歌詞に、節をつけて歌った。
人が歌いながら船を漕いでいる間に、三郎は座ったまま寝入っていた。
船底に転がしている阿波守も、今や死んだようにおとなしい。
波の音と潮風の吹く音、猿姫の歌声が交じり合って船上に流れている。
歌いながらだと船を漕ぎやすいのだと、猿姫はじわじわと実感していた。
体が楽になるのだ。
疲れを感じない。
このまま、遠い堺の港まで、船を漕いでいける気さえする。
誰に聞かせるでもなく、海の上で、猿姫は田植え歌を歌い続けた。
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