『転生したら堕天使だった、私にはお似合い(中編)』
白美(しろみ)は、女性の語りを聞き終えた。
ところどころ事情の理解の難しい点はあったが、要約すれば、女性は自分が許せなくなった。
そういうことだ。
失敗を重ねたり、人を傷つけたりして、自分が嫌になった。
それだけなのだ。
莫大な借金を抱えているとか、不治の病に侵されているとか、そうした深刻なものを白美は想定していた。
ところが他人から見て、女性の生い立ちには、自殺しても無理はないと思える程の大きな要因が見当たらないのだった。
いえ、本人からすれば深刻な問題だろうから、それだけ呼ばわりは……と白美は妥当な言葉を探る。
やはりピンとこないのだった。
堕天使としては、莫大な借金、不治の病を持つ人を救うのも当然難しい。
しかし、とらえどころのない悩みを救うのも、また難しい。
堕天使に転生して、いきなり難関にあたってしまったと白美は思った。
そんなの大したことない悩みですよ、とは言えないし、そのうち慣れます、とも言えない。
当人はこれまでの人生をずっと悩んできたらしいからだ。
白美相手にひとしきり語って落ち着いた女性は、アイスコーヒーを口に運んでいる。
彼女を見つめながら、白美は頭を悩ませた。
『白美よ、堕天使の原則は何か』
頭の中に、光明が灯った。
例の声の人だ。
助かった、と白美は思った。
「人の悩みを聞くことでしょうか」
『違うだろう。人間を葛藤から救い、欲望のままに振舞わせ、堕落に向かわせるのだ』
「堕落に向かわせるって、地獄に落とすことですよね?私、そんなことしたくないんですが……」
うむ、と悩ましげな唸り声が聞こえた。
『やむを得ぬ。では堕落なり地獄なりについてはいったん忘れよ。人間は個々の欲望がままならぬので葛藤する。その欲望がままなれば、葛藤はいらぬ。救われる』
白美を説得するために、声の人は苦労して言い換えたらしかった。
「でも、この人の欲望って、自殺することですよね……。自殺して、地獄に行きたいみたい。そんなの放っておけません」
現に白美は、女性の自殺を妨害してきたばかりだ。
『まだ道があるかもしれぬ。人は欲望が成就できぬと葛藤する。葛藤に耐えられず自死に向かう。その女にとって自死そのものが求めるものではあるまい。本人が気付かぬ望みがあるはずだ』
「そういうことですか」
着地点を探り出せて、白美も声の人もお互い納得できた感があった。
白美は女性に意識を向け直した。
彼女の視線に気付いて、女性は視線を合わせた。
「あの、ひとつ聞いていいですか」
「何か」
「仮にですよ、何でも願いがかなう、としたら何が欲しいですか」
女性が息を呑む気配があった。
「考えたこともなかった」
思案を巡らせている。
「何だろう……何が欲しいのかはっきりしない」
「たぶん大金持ちになるとか、素敵な男の人と結ばれるとか、そういう話なんですけど……」
自分で言いながら、白美は恥ずかしくなった。
しかし女性は首を振る。
「私、大金持ちになっても、いい相手が見つかっても、自分で全部ぶち壊しにする自信があるの。だから何もいらない」
白美は泣きたくなった。
こんな人に欲望なんてものがあるのだろうか。
「そうなんですか。きっと無欲ってことですね。それも素敵だと思います」
苦し紛れに、白美は半泣きになりながらそう声をかけた。
女性は白美をじっと見ている。
「堕天使さん」
「え、なんですか」
「あなた、私のことを助けようとしてない?」
「別に、そういうわけでは」
親切の押し売りだと受け取られたかもしれない。
慌てて否定した。
「私は堕天使なので、人のやりたいことを探して、後押しするのが仕事なんです」
オブラートに包んだ言い回しで、出来る限り率直に白美は教えた。
「助けるというか、人が好き放題できるように仕向ける役割って言うか……」
できれば嘘はつきたくない性分だ。
「そうなんだ」
女性は静かにうなずいた。
そして白美をじっと見ている。
「あなたを見ていて、不思議と、自分のしたいことがわかってきた」
「え、本当ですか」
「うん。私、あなたみたいになりたい」
「え……」
白美は言葉に詰まった。
「それは、あの、堕天使のことですか?」
「そうじゃなくて、人の後押しってなんか、いいと思った」
「あ、そういうことですか」
「うん。人を助けるのは無理だけど、後押しっていうのが、しっくり来たというか。そういうの私もやりたい、って瞬間的に思った」
女性は続けた。
「自分の悩みなんか他人に伝えても、同情どころか全く理解してもらえないし、客観的には何の深刻さもないかもしれないけど私にとっては大事なのにと思って、一人になってた。でもよく考えたら他の人たちも誰でも、私みたいな人生なのかも。後押しされるだけで前に進めるような人たち、近くにいるかも。だとしたら、私が後押しする役割を引き受けるって、いいんじゃないかって思えた。人に助けを乞うのは嫌でも、話を聞いてもらって、ほんの少しの後押しがして欲しい人、いると思うの」
白美はうなずいた。
「あなたの話を聞いて、自分が後押しする側にまわるって考えたら、ピンと来たの」
女性は、穏やかな笑みを浮かべている。
「よかったです」
白美は涙ぐんだ。
女性を家まで送って行った。
今の仕事とは別に、休日にカウンセリングのボランティアを始めてみるつもりだと、彼女は白美に語った。
別れ際に礼を言われ、白美は謙遜しきりで逃げてきた。
最初に自殺しようとしていた女性を、本当に助けられたのかどうかは定かではない。
落ち着いたように見えるのは一時的なもので、目を離したら、また彼女は自殺を図るかもしれない。
そんな懸念が無いではなかった。
『あの女はお前の介入で命を留め、自分の欲望を見つけた。それは確かだろう』
声の人が語った。
『堕天使の生業としては、そこまででいいのだ。次の獲物を狩ることに集中せよ』
「わかりました」
『ひとたび己の欲望を自覚した人間は、易々とは死を選ばんものだ』
白美は、声の人の気遣いが嬉しかった。
次の獲物を探さなければ、と白美は夜の街をさまよった。
おそるおそる繁華街に立ち寄った。
テレビ番組で何度か見たことのある、大都会の歓楽街だった。
こういうところは怖い、という気持ちがありながら、堕天使レーダーへの強い反応で引き寄せられて抗えない。
全身のうぶ毛がざわめいている。
しかし、変な感じだった。
この夜の歓楽街を行く人たちは、他の街とは雰囲気が違う。
感情も欲望もありのまま、自分を解放しに来ている。
堕天使としては理想的な環境なのかもしれないが、新たな獲物と言える、葛藤する人間が多い環境とは思えなかった。
しかし、白美の堕天使レーダーの反応は確かだ。
感情が漢字の形で流れ込んでくる。
拘束、監禁、殺害。
赤黒い血を塗りたくった野太い字体。
白美はぞっとした。
共生、不殺、互助。
ん、と首をひねった。
字体が打って変わって、青白い字で丁寧に書かれた毛筆になる。
苦悶、義理、躊躇。
黄色の、迷い癖のある字面が流れ込んできた。
なにこれ、誰が何をやってるの。
嫌な物を見たくない気持ちと、好奇心とがないまぜになって、白美を襲った。
感情は、歓楽街の入り組んだ路地の先から流れてくる。
白美は翼を広げて、そちらに飛んでみた。
四方を背の高いビルに囲まれた立地に、隠れるようにして小さめの雑居ビルが建っている。
細い路地を通ってたどりつくことができる場所だ。
周囲のビルよりもコンクリートの地肌が古びて見える。
奇妙な建物だと白美は思った。
このビルの一室から、先ほどと同じく矛盾した感情の群れが続けて流れこんでくる。
何を目にするかわからないが、堕天使の使命は捨てられない。
呼吸を整え、白美はビルの正面玄関前に降り立った。
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