『手間のかかる長旅(007) ぺろぺろと川面を舐める犬』
川沿いの土手を歩いていると、時々変わったものを見かける。
「見て見て」
町子(まちこ)が叫び声と共に、土手から見下ろせる川原の一点を指差した。
つられて時子(ときこ)も町子が指差す方向を見た。
一匹の犬がいる。
白い毛並みのほっそりした犬が、川岸のへりに屈みこんで、流れる川の水をしきりに舐めているのだ。
時子は身震いした。 今どき珍しい野良犬である。
だが、誰かが通報すれば狂犬病予防の名目で保健所に連行され、殺処分されてしまう運命である。
時子は、自分たちが通報して野良犬の生殺与奪を握る重責を想像したのだった。
周囲を見回した。
近くには時子と町子以外に歩いている人はいない。
見て見ぬ振りして通り過ぎよう、と思う。
「町子さん、行こう」
時子は川岸の野良犬に見入っている町子をうながした。
「でも、なんかかわいいよ?」
町子は何ら悩みの無い表情で言う。
野良犬が保健所に連れて行かれることなど想像もしていないようだ。
「私たちは川原でかわいい野良犬なんて見てない。見てなければ通報する義務もない」
「え、通報?」
「ほら、行こう」
町子の腕をとって時子は歩みを進めた。
半ば友人を引きずるような形になった。
「ずっとぺろぺろ水飲んでて可愛かったのに」
「全部目の錯覚だよ」
時子は取り合わなかった。
「近くで見たかったのにな」
「野良犬なんか狂犬病を持ってるかもしれないよ。私たち野良犬なんか見なかったけど」
「距離を保って眺める分には大丈夫なのに」
町子は不満そうについてくる。
「狂犬病を持ってる野良犬は凶暴で、襲ってくるかもしれない。もし野良犬がそこにいたとしたら」
「そういう犬には見えなかったけど」
「だから犬なんか見てないってば」
あくまで野良犬の存在を無かったことにしたい時子の建前を、町子は尊重しようとしない。
時子は焦りを覚えた。
街にいれば人目についてしまい通報されてしまう野良犬の運命なのだ。
それに比べて河川敷には野良犬が隠れられる雑草の茂みも点在するので、彼らが人を避けて生存できる余地がある。
件の犬も、それであの川原に逃げてきたのかもしれない。
可愛いからと言って自分たち二人がうかうか眺めていたら、それに気づいて他の通行人が通報するおそれもある。
知らぬ存ぜぬを決め込むのがあの犬のためにも自分たちのためにもいいのだ。
同時に自分がこのまま通り過ぎた結果、今後この土手界隈で誰かが襲われ噛まれて狂犬病を発症するかもしれない、という不安も時子の胸にはあった。
不運な小さな子供が襲われる光景も想像できた。
「私、犬好きなのに」
歩きながら町子は口を尖らせている。
私だって犬は好きだよ、だから苦しい、と時子は思った。
じんわりと目に涙がにじんだ。
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