小説:瞬殺猿姫
猿姫(さるひめ)は、織田三郎信長(おださぶろうのぶなが)の膳を覗き込んでいる。 「作為を感じる」 厳しい目をして、つぶやいた。 彼女を見守る三郎の表情が強張る。 「毒を盛られているかもしれない」 「まさか」 三郎は、引きつった声で言った。 「拙者…
客間の外から城の下女の声がかかり、昼食の膳が運ばれてきた。 一行の主、織田三郎信長(おださぶろうのぶなが)。 彼の武芸の師匠、猿姫(さるひめ)。 表向きは三郎の家臣ながらその実は人質、蜂須賀阿波守(はちすかあわのかみ)。 伊勢の土豪と称する男…
客間に帰る途中で猿姫(さるひめ)は、織田三郎信長(おださぶろうのぶなが)と出くわした。 猿姫は城内の探査をいったん打ち切り、昼食を食べてから続きをやろうと思っている。 「三郎殿、首尾よくいったのか」 「ええ。ご心配かたじけない。下総守殿から、…
忍びの女、一子(かずこ)とその連れの男。 二人で台所の開いた戸口のへりから顔をのぞかせ、中をのぞきこんでいる。 台所では、城の下女たちが昼食の膳を整えている。 華美なものではないが、客人に振舞うこともあってか、それなりに整った食事である。 「…
どうしたらいいだろう、と猿姫(さるひめ)は思案しながら歩いている。 神戸城の本丸御殿である。 背中に棒を担いで、通路を歩いている。 客人が、他家の城内をむやみやたらと歩き回るのは、あまり褒められたことではない。 だが、歩き回って城内の様子を確…
織田三郎信長(おださぶろうのぶなが)は、座っている。 再び、神戸下総守利盛(かんべしもうさのかみとしもり)と対面しているのだ。 三方を土壁に囲まれた、狭くて暗い茶室である。 明かりは、三郎の背面にある障子戸から薄く入ってくるばかりだ。 神戸下…
猿姫(さるひめ)に深呼吸をうながし、落ち着かせたところで。 織田三郎信長(おださぶろうのぶなが)は、ようやく彼女を放した。 「お座りくだされ、猿姫殿」 蜂須賀阿波守(はちすかあわのかみ)が寝そべっている傍らを、手で示した。 「嫌だ」 猿姫はかぶ…
北伊勢の神戸城、縁側に猿姫(さるひめ)と織田三郎信長(おださぶろうのぶなが)はいる。 忍びの一子(かずこ)がその場を立ち去った後も、二人は途方に暮れている。 南近江の大名、六角家と共に。 西の関家が、この城に攻めてくる。 「六角家の力を借りた…
「お二人の逢引を邪魔して、申し訳ございませんでした」 忍び装束の女、一子(かずこ)は、二人に深々と頭を下げた。 この女は何をしに来たのだろう。 そう思い、猿姫(さるひめ)は相手の頭頂部をにらみつける。 言葉通り、本当に「逢引」を邪魔しに来たの…
猿姫(さるひめ)は、縁側の上に立っている。 織田三郎信長(おださぶろうのぶなが)は、縁側の縁に腰掛けたまま。 振り返って見ている。 一子(かずこ)は、猿姫と向かい合ったまま、顔を三郎の方に向けていた。 彼女は三郎の目を見つめて、笑いかけている…
北伊勢の神戸城、本丸の御殿。 猿姫(さるひめ)たち一行は客間をあてがわれ、しばらく滞在することになった。 それぞれの刀、鉄砲など、没収されていた武具も返却された。 与えられた部屋に来て荷物を置くなり、さっそく猿姫は、愛用の棒の手入れにかかる。…
「下総守殿っ」 織田三郎信長(おださぶろうのぶなが)は、上座に向かって前のめりになった。 「まずは見てくだされ。この羽織を」 下品でいやらしい絵柄が描かれた己の羽織を、指先でつまんで強調する。 「拙者、着の身着のままで、逃げてくる他なかったの…
猿姫(さるひめ)、織田三郎信長(おださぶろうのぶなが)そして蜂須賀阿波守(はちすかあわのかみ)。 彼ら一行は、神戸城の主の間で座って待機している。 中庭に面した障子戸が開いた。 城主である、神戸下総守利盛(かんべしもうさのかみとしもり)が現れ…
北伊勢の神戸城を本拠とする武家、神戸家。 猿姫(さるひめ)一行は、現当主である下総守利盛(しもうさのかみとしもり)を訪ねてやって来た。 神戸家は、同じく北伊勢の亀山に本拠を置く武家、関家の支流にあたる家柄である。 もっとも、家柄としては関家の…
通路の脇で、壁にもたれかかって。 猿姫(さるひめ)は、指先を噛んでいる。 彼女は愛用の棒を傍らに立てかけて、思案しているのだった。 宿の下女が来て、彼女を一瞥して通る。 「お嬢さん、えらい今日はおめかしして、どこへ行くん?お伊勢参り?」 「いや…
狭くて暗い、物置部屋の中である。 猿姫の首には背後から腕がからみついている。 あごの下にかかるその腕に、猿姫(さるひめ)は指を立てた。 人間の腕に存在する急所の位置を、猿姫は熟知している。 「待て、何もしないから」 猿姫の殺気を気取ったらしく、…
可愛らしい、さえずる小鳥の声が障子窓のすぐ外から聞こえる。 織田三郎信長(おださぶろうのぶなが)は、気持ちよく、まどろんでいた。 弟である織田家当主、織田弾正忠(おだだんじょうのじょう)の手によって。 三郎は、故郷、尾張国を追われた。 行きが…
男をうつ伏せにさせて、座敷の畳の上に押し付けている。 猿姫は彼の上に覆いかぶさり、男の背中に片膝を押し当てているのだ。 そのまま、うつ伏せの男の両手首と足首とを背中の上できつく縛り上げて。 男を、えび反りの体勢にさせた。 酷い体勢で縛られてい…
すでに、日は落ちている。 座敷の隅では、燭台の上のろうそくに火が灯っている。 一行は、ろうそく明かりに照らされた座敷で車座になって、議論している。 猿姫(さるひめ)と織田三郎信長(おださぶろうのぶなが)。 そして蜂須賀阿波守(はちすかあわのか…
船尾を岸壁に繋いだ後も、船はぐらぐらと揺れている。 「三郎殿、着いたぞ」 船板に腰掛けたまま、すやすやと寝入っている織田三郎信長(おださぶろうのぶなが)。 猿姫(さるひめ)は彼の体の上に屈みこんで、揺さぶった。 「着いたのでござるか」 三郎は、…
尾張国の農民の生まれである猿姫(さるひめ)。 彼女は棒術の達人である。 猿姫と同じ国の武家の生まれである織田三郎信長(おださぶろうのぶなが)。 彼は南蛮渡来の武器である鉄砲を使える。 二人とも故郷を追われ、今は行く先も知れない、長い旅の途中に…
猿姫(さるひめ)は殺気立っていた。 周囲から、敵意に満ちた多数の視線を受けている。 こういう状況では、猿姫は殺気立たずにはおれないのだ。 彼女の連れの織田三郎信長(おださぶろうのぶなが)は、心配そうに猿姫の背中を見守っている。 猿姫は、棒術の…
こいつのせいで考えがまとまらない、と猿姫(さるひめ)は苦々しく思った。 目の前で、彼女の連れがあぐらをかいている。 織田三郎信長(おださぶろうのぶなが)である。 三郎は、尾張の国を治める領主、織田家の一族出身の若者である。 この三郎のまとう上…
領主が本拠を北方の清洲の城に移してからというもの、那古野の城下は寂れる一方だ。 その那古野の、長屋が並ぶ裏路地である。 小柄な若い女が、まじめくさった顔をして歩いていく。 顔が小さくて額の広い彼女が眉をひそめている様は、どこか思慮深い猿を連想…