『瞬殺猿姫(24) 毒見をした猿姫』
猿姫(さるひめ)は、織田三郎信長(おださぶろうのぶなが)の膳を覗き込んでいる。
「作為を感じる」
厳しい目をして、つぶやいた。
彼女を見守る三郎の表情が強張る。
「毒を盛られているかもしれない」
「まさか」
三郎は、引きつった声で言った。
「拙者を毒殺して、何の得になるのであろう」
「そんなことは、毒を盛った本人にしかわからない」
猿姫は冷静な言葉を返す。
三郎の膳の上の、蛸の煮付けに手を伸ばした。
「猿姫殿」
叫ぶ三郎に構わず、指先につまんで取った蛸の足に、猿姫はかじりついた。
蛸の足の一部を、噛み千切った。
口を閉じ、蛸を舌先で転がしている。
「しかし、毒でござるぞ」
三郎は冷静さを失い、腰を浮かせる。
猿姫は、彼を手で制した。
そのまま、蛸の断片を咀嚼して、飲み下している。
「この小鉢には、毒は盛られていないようだ」
顔色も変えずに言った。
三郎は、息をつく。
「見ていて心臓が持たぬ。毒見していただけるのはありがたいが…」
「念のため、他のものも確認しておく」
「猿姫殿」
心配する三郎には取り合わず、猿姫は他の料理も少しずつ、毒見していった。
一品一品、指先でつまんでは目で見て、鼻と舌で吟味する。
結果、どれにも異常はなかった。
「三郎殿。料理の様子に作為は感じるが、何も盛られてはいないようだ」
青くなって猿姫を見守っていた三郎に、落ち着いた声で言い渡した。
三郎は安心して、ほっと息を吐く。
「かたじけのうござる」
「三郎殿に倒れられては、私が孤独の身になるからな」
猿姫が何気なく言った言葉を、三郎は胸の内にしまった。
猿姫は首をかしげながら、自分の膳の前に戻った。
「毒を盛ったのでなければ、なんなのだろう」
誰に言うともなしに、小声で言っている。
隣にいる三郎は、彼女のそんな言葉にも耳を傾けている。
「やはり、お城の方が、毒見をされているのでは。そのせいで量が違うのではござらぬか」
「そういうことはないと思う」
三郎の方を横目で見て、言った。
客人とはいえ、この城の者にすれば、三郎は他人だ。
他人のために命を賭して毒見をするような善人は、この戦国の世には稀有だ。
彼女の顔を見返しながら、三郎は考え込んでいる。
「では、拙者以外の方のお膳に、毒が盛られているおそれは」
「ないとは言えない」
三郎に言われて、猿姫は自分の膳を見下ろした。
三郎は、実家である織田家に命を狙われている。
織田家は、三郎の実弟である織田弾正忠信勝(おだだんじょうのじょうのぶかつ)の手中にある。
そして、逃亡中の三郎を支えているのが自分、猿姫だ。
猿姫はそう、自負している。
三郎を狙う前に、彼の片腕である自分を狙うことは、刺客の狙いとしては有り得るだろう。
もしこの神戸城内に織田の刺客が潜んでいるとすれば、猿姫の膳に毒を盛っているかもしれない。
猿姫は、身を沈めた。
前屈みにした上半身を低く下げて、自分の膳の上に顔を近づけた。
鼻先をひくつかせて、匂いを嗅ぐ。
瞬間、鼻腔内に、強烈な違和感を感じた。
「んっ」
反射的に上体をのけぞらせて、猿姫は背後に倒れこんだ。
鼻を押さえている。
「猿姫殿っ」
猿姫のとっさの動きに、三郎は腰を浮かせた。
鼻を押さえたまま後ろに倒れこんでいる猿姫の傍らに、慌てて這い寄った。
「いかがなされた」
「不覚っ…」
猿姫は座敷の上で身悶えして、苦しげな声を漏らした。
料理からの、強烈な刺激臭。
鼻に痛みを感じた次の瞬間に、今度は倦怠感が全身を襲っていた。
だるい。
横になっていたい。
めまいもする。
意識が、次第に薄らいでくる。
必死に彼女を助け起こそうとする三郎の手を振り払い、猿姫は床にしがみついた。
眠りたい。
意識が薄れる瞬間、彼女は愛用の棒に思いを馳せた。
眠っている間、無防備になりたくない。
まとわりついてくる三郎の体を、肘で押しのけた。
傍らにあるはずの棒を求めて、床の上に手を走らせる。
長い棒に指先が触れた。
引き寄せて、それを自分の胸に抱え込んだ。
安心する。
これで、ぐっすり眠れる。
「猿姫殿」
引き寄せた棒を抱えて、眠り始めた猿姫。
いくら揺さぶっても、起きる気配はない。
瞬時の出来事だった。
自分の膳に鼻先を近づけ、匂いを薄く嗅いだだけで、猿姫は昏倒してしまった。
猿姫の体を揺さぶりながら、三郎は涙ぐんでいる。
誰かが、猿姫に毒を持った。
彼には信じられないことだった。
猿姫はぐったりと横たわっている。
断続的に息をしているところを見ると、命に別状はないらしい。
「何と卑劣な…」
悲しみに続いて、怒りが腹の底から湧いてくる。
猿姫には、毒を盛られるようないわれはない。
三郎は猿姫の人柄を知っている。
尾張国、那古野郊外の船小屋で出会って以来、三郎はずっと猿姫に守られている。
猿姫はいたずらに他人を害する人間ではなく、恨みを買うはずはないのだ。
それなのに、毒を盛られた。
であれば、織田家に狙われる自分の巻き添えを食ったものに違いない。
「おのれ、狙うなら拙者一人を狙えばよいものを…」
三郎は、拳を握り締めた。
離れた席で見ている、滝川慶次郎利益(たきがわけいじろうとします)の方を振り返った。
慶次郎は、状況にも関わらず、静かなたたずまいでこちらをうかがっている。
「慶次郎殿、ご助力を願いたい」
三郎は、大きな声を出した。
「見ての通り、猿姫殿が毒を盛られ申した。貴殿、城の方を呼んでくだされ」
「織田様、落ち着かれよ」
自分の膳の前に座ったまま、慶次郎は静かに言った。
三郎の頭に、血が昇る。
「落ち着けるわけがないでしょう。ことは一刻を争う」
温厚な三郎には珍しく、慶次郎を怒鳴りつけていた。
「心配ござらぬ。そらあ、ただの眠り薬じゃで」
三郎の怒りをかわすように、慶次郎は顔に薄笑いを浮かべた。
「な、今、何と?」
「ただの眠り薬。猿姫さん、いつも眠りが浅いやろ。寝込みを襲っても、返り討ちにされてはたまらんでな」
「貴殿、何を言って…」
「眠り薬をかがせれば、おとなしく眠ってもらえるで」
相手の言葉が飲み込めず、眉を寄せる三郎。
目前で、慶次郎は顔に笑みを浮かべたまま、傍らの刀を一本手に取った。
緩慢な身振りで、立ち上がった。
「そういうわけで、猿姫殿に眠り薬を盛ったは、拙者だ」
「貴殿は…」
猿姫の傍らで、三郎は緊張で身を固めて、慶次郎を見た。
慶次郎は、刀を手にして三郎に迫る。
悠々と歩きながら、鞘から刀身を抜き放った。
その立ち姿には、気迫がある。
「ただ、猿姫さんに取られたものを取り返すだけや。貴殿はおとなしくしておられ」
三郎に語りかける。
言葉を返せずに固まる、三郎を見ている。
次いで慶次郎は、横たわっている猿姫の体に、その視線を移した。
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