『頭に乗る大坂侍』
こんな水のような酒を銘酒だなどと称して、この土地はどうしようもない。
そう思いながら、与助(よすけ)は猪口を口に運んでいる。
どうしようもない土地だ。
藩主から直々に命じられ、北九州の太宰府に派遣されていた与助である。
任期を終えて、今は国許に帰る街道筋の、とある宿場にいる。
旅の日程上、一泊する都合になった。
見上げるような高い山に挟まれた、狭い宿場町である。
この宿場町が、どうしようもないのだ。
猫の額のような狭い敷地の中に、昨今出来たばかりらしい、風情も何もない新築の安普請が軒を連ねている。
今晩与助が泊まる宿の従業員は店主以下、他所から来た客である与助を見下していた。
訛りがきついことを差し引いても、その言葉遣いが横柄だ。
土地の人間の気風が、いけすかない。
さらに商店では、水のような味の薄い銘酒と泥臭い川魚とを名物と称し、暇を持て余した旅人に高値で売りつける。
どうしようもない土地だ。
金に汚い宿場の人間の罠になど、はまってたまるものか。
そう思いながらも狭い宿場で手持ち無沙汰になると、旅人の立場は弱い。
与助はすっかり散財してしまった。
夜も深まる中、小汚く狭い居酒屋の席で、眉間に皺を寄せて酒を飲んでいる。
酒の肴は、中途半端に焼かれた泥臭い川魚である。
生臭さと味の苦さと鉄臭さとが際立ち、美味しくない。
箸も進まない。
「本当にどうしようもない土地だな」
怒りの余り、与助はつい声に出して、愚痴を吐いてしまった。
自分の言葉を耳にしてから、はっと我に返る。
宿場で唯一の居酒屋は、他に行き場のない旅人で混雑している。
ところがその中に、どうも地元の人間らしい連中も混じっているのだ。
連中は、どことなくひなびた風体。
それでいて目付きの鋭い油断のならない仕草で、それとわかる。
その連中が、与助の言葉を聞いているかもしれないのだ。
与助は慌てて、周囲を見回した。
思った通りだった。
狭い店内で肩をつき合わせ、一様に暗い顔で水のような銘酒をすする、旅人たち。
その中に混じって、こちらに複数の敵意ある視線が送られている。
土地の連中だ。
まずい、と与助は思った。
殺気。
与助はとっさに、腰掛けの上に置いていた太刀を取って立ち上がった。
「おやじさん、お勘定を頼みます」
厨房の中にいた店主に声をかける。
店主はこちらをじろりと見るだけ見て、うなずきもしない。
なんて土地だ、と与助は思う。
飲んだ分の銘酒と川魚の料金を乱暴に卓上に置いて、席を離れた。
宿場の道々にはかがり火が焚かれている。
だがその火の焚き方は、心もとない。
宿場の役人が、よほど油を惜しんでいるのだろう。
その薄暗い道を歩きながら、与助は背後に視線を感じている。
後ろを振り返った。
今しがた出てきたばかりの居酒屋から、彼を追うようにして出てきた複数の人影。
店内にいた、地元の人間たちに違いない。
連中は与助の背中に視線を定め、遅い足取りで迫ってくる。
まずい、と与助は思った。
このまま宿に帰れば、逃げ場がない。
宿の連中も土地の人間なのだ。
たとえ、部屋にこもったところで。
あの酒場から来た連中と宿の連中とが結託して、夜通し嫌がらせを仕掛けてくるかもしれない。
いや、嫌がらせで済むならまだよい。
命のやり取りを強いられるかもしれないのだ。
与助は身震いした。
これは、宿の外で決着をつけてしまわないといけない。
与助は、素早く宿場内を見回した。
宿場に二ヶ所ある出入り口は、日が暮れて以降、すでに木戸が閉められてしまっている。
もう、外には出られない。
事の始末をつけるいい場所がないか、と与助は思案した。
その間にも、背後から複数の殺気が迫ってくる。
与助は、通りの最中に立ち往生した。
他に通行人もない。
地元の人間たちは、それぞれ自分の家にこもっているのだ。
薄暗い路上。
このままここで、あの連中と刃傷沙汰になるのだろうか。
与助はぼんやりと思った。
路上に立って待ち構える与助。
その目の前に、地元のごんたくれ連中がぞろぞろとやって来る。
いずれも殺気のこもった目で、与助を見ている。
彼らも水のように薄いとは言え、酒を飲んでいるのだ。
いや、土地の連中はもっとまともな酒を飲んでいるのかもしれない。
それなりに酔って、気が大きくなっているのだろう。
集団が、与助の目前に立ちはだかった。
「おいお侍さん、おめえわしらの土地に何か文句でもあるんかい」
目の前のごんたくれの中から、与助に絡む者がいる。
酒に酔っている。
旅先で喧嘩沙汰など起こしたくなかった、と与助は思う。
しかし、水のような酒と泥臭い川魚とを食わされて、彼も頭にきている。
「おう、あるで」
与助は緊張を隠して、答えた。
「なんじゃ、文句があるんなら聞かせてもらおうかい」
連中の中で、特に体の大きな者が調子っ外れな大声をあげた。
酔っている、しかし強そうな奴だ。
「言うてみんさいや」
土地の訛りに乗せての怒鳴り声。
大勢で与助の目の前をふさぎながら、今にも襲い掛からん風情。
近くの家々で、戸口の木戸を薄く開けて様子をのぞき見る気配。
与助が握った拳の中で、じんわりと汗が湧いている。
言うことを言うほかない。
「そしたら言うたろか」
ごんたくれ共の勢いに釣られ、与助は己の侍の身分を忘れた。
国許の、町方の言葉で怒鳴り返している。
「おまはんらの食うとる肴も酒も、おわっとるわ。あんなもん、ぼったくりや」
「なんじゃと、この餓鬼」
連中はいきりたった。
前のめりになって、こちらを取り囲もうという気配。
そうはさせるか、と与助は後ずさり、距離を取る。
「そうやないかい、あんな水みたいに薄い酒と、泥臭い川魚」
「おめえ、わしらの土地の産品を侮辱しよってからに、ぶち殺されたいんか」
怒鳴られて、与助は身の危険を感じる。
じりじりと後ずさり続けた。
こんな状況で物を言うのは、侍の武器だ。
「おまはんら、わしの剣術の腕前を知らんやろ」
喋る時間を稼ぎながら、与助は啖呵を切った。
ごんたくれ共は、じわじわと距離を詰める、
「わしは塚原卜伝が開祖、鹿島新當流の免許皆伝じゃ」
出来うる限りの大声を張り上げた。
同時に腰に下げた刀の鯉口を切り、鞘から太刀を引き抜いた。
すり足でにじみ寄っていたごんたくれ連中が、踏みとどまった。
連中の中に、得物を持っている者はいないのだ。
皆が素手なのである。
「我が鹿島新當流の妙技。生きたまま三枚におろされたいもんは、今すぐかかってこんかい」
両手で支えた刀を上方に構え、与助は言いたいことを言った。
相対する連中は、本物の刃を見て気後れしたらしい。
踏みとどまったまま、仲間同士お互いの顔を見合わせている。
「何しとるんじゃこら、はよかかってこんかいな」
与助は怒鳴りつけた。
とは言っても、連中を必要以上に刺激しないよう気をつけている。
剣術など、お勤めの範囲でお仕着せのものを型ばかり習ったに過ぎない。
鹿島新當流など、実際はどんなものなのか見当もつかなかった。
つまりはったりである。
しかし、うまくいった。
与助のはったりに合い、ごろつき連中は今やまごついている。
怖気づいているようだ。
頃合だ、と与助は思った。
「どないした、死にたい奴はおらんのか」
答える者はいない。
試しに刀を構えたまま与助が一歩を踏み出すと、集団が後ろに退く。
慌ててつまづく者も出る。
場の勢いは、今や与助一人の物だった。
「どうしたろか、おまはんら一人一人、片っ端から膾にしたろか」
集団の中から、悲鳴があがった。
「堪忍してつかあさい」
先ほどの図体の大きな男が、弱々しい声で言った。
態度の変わり様もいちじるしい。
「どない堪忍せえちゅうんじゃ、こら」
与助は適度な怒声を浴びせる。
「すみません、我々は勘違いしよりました」
大男は深く頭を下げた。
この男が、ごろつき共の頭目なのだろう。
集団が、同じく自粛の雰囲気を帯びている。
しかし、与助は油断しなかった。
「おまはんらの勘違いか」
「はい、そうです。堪忍してつかあさい」
頭目は頭を下げる。
「おまはんら、一度わしに喧嘩を仕掛けた以上、それなりの態度は示してもらわんと」
与助は意地悪い気持ちを起こしている。
「そげんこと言われましても、どうしたらいいんです」
頭目の顔に、弱々しい色が浮かんだ。
彼に率いられた集団は、今や与助と頭目とのやり取りを不安げに見守るばかりだ。
「誠意を見せんかい」
「誠意ですか」
「わしは宿におるからな。おまはんら、この土地の旨い酒と旨い肴をわしのとこに届けろや」
「えっ」
頭目の表情に、若干の安堵が浮かぶ。
「それぐらいのことで、ええんですか」
「そうや。それだけのもん届けて、後はおとなしくしとれ。そしたら許したるさかい」
ごろつき集団が、小声でささやき合っている。
「そういうことでしたら、お任せください」
頭目の安堵の声と共に、集団の空気が緩んだ。
これぐらいで勘弁しといたろか、と与助も刀を鞘に納める。
頭目に今夜の宿の場所を伝えて、その場は収まった。
夜更け、寝床で書物を読んでいると、階下から宿の主人が呼ぶ声。
階段のところまで与助は這って行った。
「土地の若い衆から、差し入れが来とります」
「おお、ほんまか。それはおおきに」
喜んで、与助は階下に差し入れを受け取りに行く。
水のように薄い銘酒と、泥臭い川魚。
大量のそれらが、階下で与助を待っていた。
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