2019年12月沖縄旅行一日目(7)。源為朝の伝説が残る牧港。牧港テラブのガマ。牧港漁港
再び浦添大公園の北側に抜けて、牧港の方面まで歩いていこうと思います。
伊祖公園の脇を通ります。
渋いです。
ガジュマルなのか何の木なのかわかりませんが、歩道の曲がり角に大きな木が生えている風景はなかなか珍しいと思いました。
沖縄の住宅って鉄筋コンクリート造りが多いんですね。
私の受けた印象ですが、韓国の街角と風景が似ています。
韓国の街角も、伝統家屋は別にすると鉄筋コンクリートといいますか、モルタル造りの建物が目立つんですよね。
「牧港(南)」の交差点です。
国道58号線沿いに、各種のお店が並んでいて、栄えている雰囲気です。
ここから、交差点北側にある株式会社琉薬とパチンコ店の間の道に入ります。
ここも史跡です。
「牧港テラブのガマ」です。
ガマというのは洞穴のことですね。
下記のような伝承が残っているそうです。
かつて源為朝が琉球に渡来し、大里按司の妹(または娘)との間に男子をもうけました。
ところが為朝は、一人牧港から船に乗り、鎌倉に帰ってしまいました。
残された妻と子はこのガマの中に暮らして為朝の帰りを待ちわびました……。
そういう言い伝えです。
この残された男子が尊敦(そんとん)、後に舜天王統の開祖、舜天王となる子でした。
ただ考慮しないといけないのは、舜天、ひいては舜天王統そのものすら、実在を示す史料が希薄だという事情があるんだそうです。
つまり舜天王統と舜天は、後の時代になってから創造された存在だったかもしれない、ということです。
後世の安土桃山時代になって、琉球王朝を武力支配した薩摩の島津家(その始祖が源頼朝の落胤だという伝承を持つ)との関係上、琉球王朝でもその遥か祖先を源為朝に設定したのでは…という説もあります。
それでも舜天の存在も彼が為朝の子息だということも、琉球では古くから信じられてきた伝承ではあるようです。
実際、剛勇として琉球以外の土地にも多くの伝説が伝わる為朝ですから、琉球に渡来していた伝承は、史実としては不明でも何か信じたくなる魅力があります。
ガマの入り口はかなり狭いです。
中に少しだけ潜ってみたのですが、中は思ったより奥行きがあり、奥の壁沿いに祭壇が設けられていました。
拝所だということです。
舜天王にまつわる場所であるために、聖地とされたのかもしれません。
いったん外に出てから手を合わせました。
港の近くのこのガマで妻子が為朝を待ちわびたので「待港(まちなと)」、後にそれが転じて「牧港」になったということです。
せっかくだから現在の牧港も見ておきましょう。
いったん58号線に戻ってから東に歩き、「牧港」の交差点から北に向かう路地に入ります。
ドライビングスクールの敷地の外を歩き続けます。
公園の外で猫が丸まっていました。
寝ているようだったので、そっとしておきました。
沖縄は冬でも温かいから、野良猫にとってはまだ暮らし易い環境かもしれません。
この辺りが牧港の港部分らしいのですが。
あまり観光客が来る雰囲気ではないですね。
漁港、というのでしょうか。
この辺りの海は牧港湾だそうです。
源為朝がこの付近から鎌倉に向けて出港したかと思うと感慨はあります。
「関係者以外立入禁止」の看板が出ていました。
やはり観光客が散策する場所ではなさそうです。
国道58号線まで、とぼとぼ歩いて戻りました。
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2019年12月沖縄旅行一日目(6)。浦添貝塚と伊祖の高御墓。王権の正統性
いしぐふーのお店から、また北に少し公園内を歩きました。
市来式土器という土器が、この貝塚から発掘されたのだそうです。
市来式土器は縄文式土器の一種で、鹿児島県内にある市来貝塚で発掘された型と同じものを言うそうです。
鹿児島中心に、沖縄も含めた九州全土で出土される型だそうです。
鹿児島でつくられた土器が流通したか、もしくはその製造技法そのものが各地に伝わったということなのでしょうね、沖縄も含めて。
本土から遠く離れた沖縄の島々も、古代から文化的に繋がっていたということなんですね。
浦添貝塚のすぐ傍らに古めかしい階段があって、なぜか崖の最中まで登れるようになっています。
登り切った先にいきなり墓所があって、ちょっとおっかなかったんですが。
「伊祖の高御墓(たかうはか)」と呼ばれる墓所でした。
英祖王の父にあたる、恵祖世主(えそよのぬし)という人物が眠っているということです。
手を合わせました。
琉球王朝の英祖王統は、初代の英祖王が舜天王統の義本王から王位を譲られたことに始まる王統です。
ですから、恵祖世主の時点ではまだ王に名を連ねてはいません。
恵祖世主始め、英祖王の父祖は浦添按司として浦添を支配した豪族だったようです。
ちなみに、琉球王朝の最初の王統にあたる舜天王統は、本土から琉球に来た源為朝の末裔だと伝えられていたそうです。
平安時代末期の武将で、源頼朝の叔父にあたる為朝は、保元の乱で敗れて伊豆大島に流刑にされます。
この為朝が伊豆大島に留まらず、琉球にまで流されたものと、琉球側には伝承されたのですね。
琉球王朝の王位の正統性を、本土から来訪した(とされる)貴種、為朝に求めたのでしょう。
その「為朝の末裔」の舜天王統から王位を継承した英祖王は、「母が太陽を呑んで生まれた」という伝承を持ち、「太陽(てぃだ)の子」と称えられたそうです。
新たな王統の開祖として、前王統とは別の権力の正統性が必要になって太陽を持ち出したのでは、という感じがしますね。
ついでに言うと、英祖王統から王位を譲られた次の察度王統は、開祖の察度王が天女を母に持つと伝わっています。
次の英祖王統の開祖は太陽の子。
その次の察度王統の開祖は天女の子。
それぞれの王統で、開祖が王権の正統性を神秘的な存在に求めてきた跡が見られますね。
古今東西で、実力者が一代で王になった場合の普遍的な流れではあるのかもしれません。
現代の我々から見ると、遠い過去の人物のことであるので、「もしかしたら本当に神秘的な存在だったかも」と信じることは出来るんですね。
そういう妄想を抱いて歴史的な人物を眺めるのも楽しいものです。
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2019年12月沖縄旅行一日目(5)。浦添大公園のランチ名所。いしぐふーの元祖あぶりソーキそば
お昼を食べるために、浦添大公園に戻りました。
浦添大公園の展望台に、沖縄そばの名店があると聞いてきたのです。
らせん状のスロープで登れる、斬新な構造の展望台です。
このスロープの反対側に、沖縄そばのお店がありました。
すでに順番待ちの客で行列が出来てて、お店の外観が撮れませんでした。
公園の中にお店があって便利なうえに、有名なお店なんですね。
看板に書いてませんが、店名は「いしぐふー浦添大公園店」です。
あぶったソーキ(豚の骨付きバラ肉、スペアリブ)を使ったソーキそばが名物みたいです。
楽しみです。
あぶりソーキそばと、じゅーしー(炊き込みごはん)のセットを頼みました。
920円でした。
麺は手打ちで、コシがしっかりしてます。
このお店の沖縄そばは卵焼きが乗るのが定番のようでした。
沖縄そばに卵焼き、わりと合いますね。
豚骨を出汁に使ったコクのあるスープでした。
味変用の鰹節もつけてくれています。
名物のソーキ、別皿で付いてくるんですね。
香ばしくて甘い味付け、柔らかいお肉でした。
途中から和からしとワサビで味変もできます。
じゅーしーは、秋のきのこを使ったものでした。
じゅーしーって食べたことがなくて、どんな味なのか気になっていたのですが、本土の炊き込みご飯とほぼ同じですね。
若干柔らかめに炊いてある感じはしました。
いしぐふーの沖縄そば、美味しかったです。
丼とお皿が陶器で、雰囲気もよかったですね。
お腹が満たされたので、もう少し浦添大公園の中を散策していきます。
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2019年12月沖縄旅行一日目(4)。浦添ようどれ、伊祖城跡の見学
浦添城の敷地内に戦前の那覇市出身の言語学者、伊波普猷(いはふゆう)の墓所もあります。
お参りしました。
伊波普猷は言語学の他、沖縄に関する民俗学等各種の研究に通じ、論文で「浦添は首里以前の王都だった」という説を最初に提唱した人でした。
この論文「浦添考」が入った『古琉球』という本が岩波文庫から刊行されていますが、通販サイトで売り切れになっていて、私もまだ買えていません。
欧米人の若者の二人連れが遠くを見ながら「あれが基地だ」と話していました。
そう言えば遠くに滑走路とその周辺の広い用地が見えます。
基地の敷地は広々と空間が取られているのに、その周囲の市街地が建物で込み合っていて、「米軍基地が土地を占有している」感がかなりあります。
浦添ようどれは、琉球王朝の英祖王とその末裔にあたる尚寧王、そして尚寧王の一族が眠る陵墓です。
高い石垣が設けられています。
沖縄の史跡等で見られる石垣は「石牆(せきしょう)」と呼ぶそうです。
浦添ようどれ前の広い原っぱは、墓所を管理していた御墓番三家の屋敷跡でした。
では、御陵にお参りしましょう。
ここは元々「暗しん御門(うじょう)」という、石垣と岩盤の下をくぐるトンネル状の参道だったのです。
沖縄戦で頭上にあった岩盤が崩れ、今は左手に、途中で折れた石垣の柱が見られるばかりです。
解説板によると、暗しん御門が健在の頃は、「地下通路をとおって『あの世』に行くような雰囲気」だったということです。
王家の御陵の神秘性を醸す構造になっていたということでしょう。
浦添ようどれです。
右の西室には英祖王、左の東室には尚寧王と彼の一族とが葬られています。
英祖王陵の西室です。
こちらが尚寧王とその一族の陵墓、東室です。
浦添ようどれは13世紀に英祖王陵として設けられ、後世の1620年に尚寧王が改築したということです。
沖縄戦と戦後の採石とで徹底的に破壊されてしまった……のですが、1996年から発掘調査と復元の作業が進められ、2006年には現在の姿を取り戻したそうです。
お参りしました。
沖縄の石牆はきめ細やかと言いますか、石がきっちり詰まって表面も平らかで、美しいですな。
暗しん御門の辺りにやたらと木の実が落ちていました。
名前がわかりません。
瓜みたいな色ですね。
食べられるのか?というのが気になりました。
まあ正体がわからない木の実には毒があるかもしれないので、触らないのが無難です。
頭上の岩壁に生っていました。
沖縄の固有種か本土にも分布するものかわかりませんが、植物の名前がわからないと歯痒いですね。
引き続き、浦添大公園内を散策しながら、北側に抜けたいと思います。
顔に奇抜な模様のある猫がいました。
近くには寄ってきませんでした。
浦添大公園と言うだけあって、敷地が広いです。
浦添大公園の北の端に来ると、高台から地上に降りる石の階段の一部が封鎖されていました。
「点検の祭」は誤植だと思うのですが、階段の不具合を「(故障)」と表現するのはなかなか斬新で面白いと思います。
東の伊祖インターチェンジ方向を眺めました。
浦添大公園から一度出て、北に行くと伊祖公園というまた別の公園があるのです。
そこも伊祖城という別のグスクの跡地だそうですので、行ってみることにしました。
本土だと「まむしに注意」のところが沖縄だとハブになりますね。
ハブにもまむしにも会いたくないです。
伊祖公園にもガジュマルが生えています。
公園の守り神のような存在なのでしょうね。
ここも大きな公園です。
伊祖城(グスク)跡です。
登ってみます。
伊祖城跡の一の郭(本丸)の場所には英祖王を祀った英祖宮(英祖神社)があります。
英祖王は鎌倉時代後期の人物で、先にお参りした浦添ようどれに葬られていました。
伊祖城はその英祖王の生まれた場所であり、彼の先祖代々からの本拠だったということなので、相当に古い時代からあったお城なのですね。
敷地内から中国製の陶磁器等も発掘されているそうです。
英祖王の一族は近隣の牧港を通じて、中国大陸との貿易で勢力を蓄えていったのかもしれませんね。
公園の敷地内に展望台のような立地にあるよさげな東屋を見つけたのですが、閉鎖されて入れませんでした。
この年の夏から秋にかけて沖縄には台風が来襲していたので、どうもその影響で東屋の土台の石垣が傷んでいたようです。
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2019年12月沖縄旅行一日目(3)。浦添城(グスク)、洋画「ハクソー・リッジ」の舞台
あの緑の丘ですな。
近づいていきます。
浦添城は中世から近世まで沖縄を支配していた琉球王朝が、首里城よりも以前に本拠を置いていたところです。
沖縄戦では、軍事的に重要な拠点として、防衛側の日本軍からは前田高地、侵攻側の米軍からはハクソー・リッジの呼称を受けていました。
ハクソー・リッジというのは訳せば、のこぎり崖。
難攻不落の要塞でした。
激戦地になり、日米両軍に多数の死傷者が出ました。
戦時中から残ったままの不発弾、大阪市内でも時折工事現場なんかから発見されて撤去作業で区画が封鎖されたりとかあります。
沖縄は、もう頻繁にあるみたいですね。
特に浦添城の周り、激戦地だったわけですものね。
沖縄の住宅は、一戸建てでも屋上に貯水槽を備えた家が多いですね。
県内にダムが少なく、本土に比べて水不足になりやすいために各戸で備えているんですね。
欧米人の観光客の姿もちらほら目に付きました。
公園の入り口から登ってきた石畳は、中世に琉球王朝の尚寧王が浦添城と首里とを結ぶ通路として整備したものでした。
ということは、今はこの公園内で復元されているだけですが、昔はこの石畳の道がずっと首里まで続いていたということなんですね。
1597年に整備したということです。
その頃の本土は慶長の役で、豊臣秀吉配下の武将たちが朝鮮半島に侵攻していました。
琉球は豊臣軍の朝鮮攻めには加担していませんが、緊迫した情勢下で浦添城首里間の交通の整備が必要な、何らかの事情があったのかもしれません。
大きなガジュマルの木ですね。
ガジュマルの木なんて、南国に来なければお目にかかれません。
沖縄旅行以前に、香港、台湾の旅行中にも度々見かけました。
トゥン(殿)もあります。
城(グスク)の近隣の集落の人々が集まって、祭りを行う場所だそうです。
沖縄では、城は王族の住居兼防衛施設であると同時に、民衆の祭祀の場でもあったのですね。
聖地である御嶽(ウタキ)もお城の敷地内に祀られていることが多々あるようです。
浦添城北側は断崖絶壁です。
北から侵攻した米軍(連合軍)は、この断崖絶壁を登らなければならず、上で待ち受ける日本軍に迎撃される過酷な状況でした。
メル・ギブソン監督の映画「ハクソー・リッジ」は、この激戦地で人命救助に専念した実在の米軍の衛生兵、デズモンド・ドスを主人公にした作品でした。
崖際の解説板でも、デズモンド・ドスのことを紹介してありました。
欧米人観光客が結構多いのも、おそらく件の映画を観て聖地巡りに来た人たちが含まれている……のでしょうね。
現在は崖の壁面に草が生い茂ってわかりにくいですが、やはり断崖絶壁です。
上で敵兵が銃を構えているところに登っていって頭を出さないといけない…というのがどれだけ絶望的な状況か、想像するのも辛いです。
ただまあ、米軍の圧倒的な物量を迎え撃つ、日本軍の方の絶望感の方が大きかったであろうとは思いますが。
海の向こうにボートの大軍が上陸し、米兵たちが押し寄せてくる……。
守る日本軍、攻める米軍、どちらも正気ではいられなかったと思います。
今は、ただ心地いい潮風が届く高台でした。
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2019年12月沖縄旅行一日目(2)。旭橋駅から浦添前田駅まで。車窓に火災後の首里城。ゆいレールについて語る
旭橋駅近くの、今回の宿泊先に荷物を預けてきました。
また駅に戻ります。
歩道の舗装で石灰岩の粉末か何かで固めてある?感じで、独特の踏み心地でした。
那覇市辺りの地質は石灰岩で出来ていると聞いたことがあります。
沖縄ファミマでは「ファミマでUEMA」として、沖縄のご当地フード、上間天ぷらとのタイアップ中でした。
上間天ぷら、私も食べてみたかったんです。
でも今はお昼前で、これから食事に行く店の予定もありますから、今は我慢です。
那覇市役所の建築です。
何と言いますか、各階テラス構造とでも言うのでしょうか、凝った建築ですね。
沖縄に多いという石敢當(いしがんとう)を見つけました。
初石敢當です。
調べたところによると沖縄固有のものというわけではなく、元々は中国由来の風習だそうですね。
道の突き当りに設置する魔除けのようなものです。
暑くて喉が渇くので、自販機で買いました。
沖縄のご当地飲料メーカー、オリオンの「オバァ自慢のさんぴん茶」でした。
さんぴん茶っていうのは、つまり沖縄産のジャスミンティーですな。
甘い風味で美味しゅうございました。
再びゆいレールに乗るため、高架の上にいます。
久茂地川のあの色、おそらくは緑青色、深みがあっていいですね。
南国の美しい川という風情が気に入りました。
これから那覇市の北隣にある浦添市の浦添城(うらそえじょう、うらそえグスク)跡を見物しに行きます。
途中、車窓から首里城が見えました。
この旅のちょうど一か月前、首里城の正殿始め、木造の建物部分が火災で焼失してしまったのでした。
焼け残った建物が残っており、屋根には穴が開き、遠くから見る限りでも焼け焦げた痛々しい姿でした。
浦添前田駅です。
旭橋駅から浦添前田駅まで、乗車時間がだいたい30分ほどでした。
二両編成で車両も小さなゆいレール、週末は観光客と地元民の乗客とで混み合うので、乗車感は結構キツイものがあります。
あまり長時間は乗りたくないですね。
また仮に長時間乗りたくても、できない理由が他にもあります。
ゆいレールの北側の終点はこの浦添前田駅から1キロほど東に行ったところにある、てだこ浦西駅です。
縦に長い沖縄本島のごく南側、那覇市浦添市間だけの乗り物なので、沖縄各地の長距離移動は路線バス、高速バスに頼るほかないのです。
ただ、ゆいレールは県庁前駅、牧志駅、おもろまち駅、首里駅等、観光スポットの多い区間を通るので、これらの那覇と首里中心の観光にはちょうどいい交通手段ではあると思います。
ところで、元々ゆいレールは那覇空港駅から首里駅までの路線だったのだそうです。
延長工事を経て、2019年4月に石嶺駅、経塚駅、浦添前田駅、てだこ浦西駅までが開通したのでした。
ですからこの旅の時点で、私が降りた浦添前田駅はまだ出来て8か月、出来たてほやほやだったわけですね。
今後も、てだこ浦西駅以西への延長計画が持ち上がらないとも限りません。
もしかしたら、沖縄最北端の国頭村までゆいレールが繋がる日が、遠い未来には来るかもしれませんね。
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2019年12月沖縄旅行一日目(1)。沖縄到着。那覇空港から、ゆいレール旭橋駅前
これまでの人生で沖縄に行ったことがなかったんですね。
2019年当時使っていたLCCでは、夏場の観光シーズンに安い航空券が取れない状況で。
しかし冬場の沖縄であればお手頃チケット取れるのでは、と思ったら運よく取れました。
それで2019年の12月、二泊三日で冬の沖縄に行ってきました。
沖縄の那覇空港に着きました。
「めんそーれ」ってやっぱり言うんですね。
那覇空港から連絡通路ですぐモノレールの「ゆいレール」那覇空港駅に行けます。
屋外に出たら、12月なのにむし暑くて、沖縄の気候を実感しました。
大阪は季節並みの気候だったので、防寒着を着込んで来ています。
すぐさま脱いで身軽になりました。
通路を行こうとした時、上空を米軍の戦闘機が轟音をあげながら飛んでいきました。
沖縄の米軍戦闘機、ヘリコプター等による騒音についてはかねてから耳にしていましたが、実際に聞いてみると、予想していた以上に大きな音でした。
こんなのを日常でしょっちゅう聞かされ続けていたら、かなりしんどいと思います。
高架上の駅から地上に降りてくると、久茂地川が高架に沿って流れています。
水がエメラルドグリーン色です。
久茂地川の向こうのここは「カフーナ旭橋A街区」という区画だそうです。
一階に那覇バスターミナルのあるビルは、上階に県立図書館、ハローワーク等の公共施設の他、ショッピングモールの那覇オーパがテナントとして入っている複合施設です。
今回の旅では那覇から沖縄各地への路線バスを利用する予定なので、度々ここに来ることになると思います。
この界隈、沖縄戦で焼失するまで、軽便鉄道の那覇駅があったらしいです。
その駅の跡を保存してあるのですね。
界隈の再開発中に発見された、機関車用の転車台の遺構だそうです。
現在の沖縄には、ゆいレールをのぞいては鉄道が存在しません。
軽便鉄道ありし日には、ここにあった那覇駅から北の嘉手納、東の与那原、南の糸満まで行く路線がそれぞれ運航していたそうです、
こちらは戦前から残っている「仲島の大石(ウフシイ)」です。
信仰の対象でもあったようですな。
もともとこの一帯は仲島という島で、大正時代に仲島と本島との間の海が埋め立てられて一つになりました。
それまでは、この大石が仲島の海岸線の際にあったんですね。
埋め立てられる前、明治時代の終わりまでこの仲島は遊郭のある土地柄だったということです。
遊郭が閉鎖され、海が埋め立てられた後に、軽便鉄道の那覇駅が開設されたんですね。
その跡もバスターミナルになり、鉄道の痕跡はわずかです。
戦災で失われた軽便鉄道の施設は戦後も復興されず、県民の交通需要は路線バスが果たしてきた…ということだろうと私は想像しました。
ゆいレールが開設され運行を開始したのはごく最近、平成に入ってからだそうです。
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