飲酒と執筆

飲酒して、酩酊した状態で小説等を執筆することの是非というのがあって、なぜそういう話題が遡上に登るのかと言えば、酩酊した状態では執筆が容易になるからだ。

作家が執筆について書いた読本の類を読むと、結構な確率で飲酒と執筆についての考察がある。

私がその手の小説の書き方の本を読んできたうえでは、ほとんどの作家は酩酊した状態での執筆には否定的である。

脳が働かなくなるから、まともな文章が書けないし、物語の展開、構成を意識しながら書くということはほぼ不可能なのだ。

それを肯定的に言い換えると、物語の展開、構成を意識しないで書けるようになる、ということでもある。

本来の自分よりも言葉選び、展開の幅が広がるので、執筆の速度は飛躍的に上がる。

当然その質は正常な状態で書いたものより落ちているのが常だが、そうなっているにも関わらず、執筆者の中にある執筆へのためらい、例えば書こうとしている文章が自分の求める質に達しないとか、読者が求める質に達しないとか、そういうことで次の文章が書けないという状態が減じる。

書くのが気持ちいいから職業的自尊心も読者もどうでもいいや、の精神状態である。

もうひとつ、常の自分にある倫理的な制約も外れることで、常にない展開に物語を進める効用もある。

登場人物がその人物なら取りそうもない行動を取る、その小説の世界に設定されていたはずの時間的物理的な取り決めから外れた展開をする。

酩酊した状態で、そういう自由な発想と展開で執筆が行えるようになる。

執筆に行き詰った作家は酒に溺れるというのは、酒による酩酊で書けない苦しみを紛らわせるのとは別に、その酩酊による開放的執筆状態に頼った経験が過去にあり、味をしめてしまうのかもしれない。

私も酒を飲んだ状態で執筆することがあり、そういう状態だと筆が進むし、常にない展開を見るのも事実なのだ。

だが前述の通り文章の質は落ちているし、何よりも後から襲って来る「酒の力に頼った」という自己嫌悪が苦しい。

また文章の質が常のそれよりさほど落ちていない場合もあり、それはかえって絶望的な気持ちにさせられる。

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ブログを7年も続けていた

先に、埼玉県比企郡吉見町の吉見百穴を訪れた旅記事を書いて。

その途中で昔、大阪府柏原市高井田横穴古墳群を訪れたことを思い出した。

確かその時もブログ記事にしたはずだ、と思って検索したら、あった。

2015年の日付の、記事があった。

はてなブログを開設したのが2016年で、それ以前のものは別のブログサービスで書いたものからの移設になる。

まあいずれにしても2015年からブログを始め、2016年にははてなブログに移って書き続けていることになる。

当時、確かイケダハヤト氏のブログを読んで、ブログを書いてアフィリエイト等の広告収入で生活する道があると知ったのだった。

私はさらに以前の20代の頃にもブログサービスで旅行記事と小説とを書いていたことがあって、当時のものは今は削除してしまっているのだが、まあ結局今と書いているものは変わらない。

その20代の頃にもアフィリエイトのようなものはすでにあって私も広告を貼り付けていたが、たまに収益はあっても微々たる金額だったので、それで生計を立てるという発想はなかった。

30代になって生活に困っており、イケダハヤト氏のブログのスタイルを知って私も改めてブログを始めてみようと思ったのだった。

あれから7年経って、まだこうやってブログ自体は時々不定期に更新しているものの、期待していた収益は全く無い。

記事数はすでに800を超えているものの、収益も無いしそもそもアクセス数も非常に少ない。

一日100アクセスにも満たない。

自分に書ける範囲の旅行記事と短編小説を気が向いたときだけ書いてきて、これでは収益に結びつかないということが7年かけてわかった。

SEOとか読者の求める記事の書き方とか、そういうのを学習しない限り、人が求めるブログ記事というのは書けないということだ。

しかし収益のために研究してブログ記事を書く、ということに本当にどうしても気が進まないので、今からもやる気がないのだった。

広告収入目当てにブログを始めたものの途中で止めてしまう人というのはだいたいそうなのではないだろうか。

自分の享楽のために文章を書くのでなければ、もしくは目先の手の届くところに現実的な金銭が見えているのでもなければ、執筆を習慣することはできない。

7年もブログを続けていて、何か得たものがあるとは思えないが、それは続ける意味を間違えていたからかもしれない。

こうやって、個人が好きなように文章を書いて自己満足を得る媒体としてブログほど優れたサービスはないのだし、昔からブログというのはそういうものだった。

真鍋かをりが「ブログの女王」と呼ばれていた頃が懐かしい。

旅行記事とか小説記事とか、そういうのに自分なりにこだわっていたが、こうやって好きに書ける雑記の良さに早く気付いていればよかった。

アフィリエイト等で広告収入を期待する、というのは宝くじみたいなもの、だと割り切ればいいかもしれない。

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紀行文の書き方

将来小説を書いて収入を得るのはかなり非現実的としても、文章を書く習慣があれば何か文章を書くことに関わる仕事なり副業なりに導かれるのでは。

そういう期待があって、旅行記事と別にこうやって小説執筆についてを主な題材に、思い付きを形にするだけの雑記記事も書き続けてみることにした。

旅の経験を連ねるだけの旅行記事も、思い付きを書くだけの雑記記事も、どちらもあまり構成がいらないのだ。

いや、旅行記事については構成を練って編集しないと紀行文には昇華されないのだとは思うが、「訪れた場所を余すことなく人に見せたい、訪れた史跡に関わる歴史的人物についても記したい」という思いが記事執筆の唯一の動機になっているので、「編集する」ということには苦痛を伴うのだった。

苦痛を伴う作業が付いて回る限り、執筆が進まない。

まだ記事にしていない旅のストックも複数あり、ひとまずは執筆を進めることが一番大事だ。

そういう言い訳は脇に置いても、苦痛は出来る限り無くしたい。

紀行文というと、自分が文庫本等で読んで来たものは文章が主体で、現地の写真等は章と章の間に少数が挿入される程度だったと思う。

つまり他の随筆と同じく、文章の力で読ませている。

翻って自分の旅行記事はというと、まず旅の現地で撮ってきた写真を時系列で並べて、そこにコメントを付記するように文章を書いていく。

写真が、主体になっている。

だから時には、写真を説明する文章が冗長になっていることもある。

写真を見ればわかることを自己満足的に書き連ねる、というような。

読む側にすれば「写真を見ればいいのか説明文を読めばいいのかどっちなんだ」と思うかもしれない。

また「他人の個人的な趣味に基づいた旅をだらだらと追体験させられる、付き合わされる」という感覚を味わうかもしれない。

紀行文ってそういうものじゃなくて、筆者と一緒に旅行を楽しむ臨場感が肝だろう。

行間ににじむ、筆者の人生観を垣間見たりしながら。

自分の旅行記事がそういう紀行文の娯楽になっているかどうか、確信が無い。

今の写真に説明を付けるスタイルだと、自分は自分の個人的な趣味に合った旅行を再体験しているようで凄く楽しいのだが、書いている人間だけの自己満足になっているのかもしれない。

願わくば、自分と全く同じ感性かつ同じ趣味を持った読者の目に記事が届きますように。

そんな思いで、現在の旅行記事スタイルを反省することもなく続けている。

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2022年4月埼玉旅行一日目(7)。岩室観音堂。吉見百穴。地下軍需工場跡を覗く

松山城跡から、続いて吉見百穴に向かいたいと思います。

城跡の暗い森の中から出てきて、正直ホッとしました。

若干怖かったです。

松山城跡の森の地続きの場所で、岩壁の中に窓のようなものが見えるんですね。

この時は何かわからなくて気持ち悪いなと思ったのですが、後から調べたところによると、これは「巌窟ホテル」と言う場所だそうです。

明治時代に土地の好事家が岩の中を掘り進めで、洋館のような内装の住居を掘ったものらしいのです。

現在は封鎖されていますね。

『埼玉県の歴史散歩』では取り上げられていないスポットなので、現地では全く気付きませんでした。

巌窟ホテル、まだ現地の教育委員会では史跡認定されていないということかもしれません。

保存がちゃんとされていれば観光名所にも出来たかもしれないのですがね。

巌窟ホテルの隣に岩室観音堂があります。

木像のお堂の奥の岩壁の中が空洞になっており、その中に観音像の他、数多くの石の仏様たちが安置されています。

観音像を彫ったのは当地に来た弘法大師だという伝承があります。

手を合わせました。

この急な斜面を登った上に面白いものがあるという話なので頑張りました。

ハート型の通り穴なのですね。

この中をくぐるのも一苦労でしたが、せっかくの記念に通って参りました。

気が済んだので吉見百穴に向かいます。

観覧料が大人300円でした。

ひとかたまりの岩山に、古墳時代後期の横穴式の古墳が多数集まっているのが吉見百穴です。

集団墓地ということですね。

この百穴は江戸時代から謎の場所とされており、明治時代中頃の発掘調査で土器類が見つかったことから一度は住居跡と発表されました。

が、後の大正時代に入るとさらに調査が進んで古墳であるという決着に至りました。

戦時中には古墳のある岩山の地下に巨大な空洞がつくられ、軍需工場として使用されております。

現在は内部は調査中とのことで、公開はされていません。

扉の格子ぎりぎりまで近づいて中を覗きましたが、かなり中が深いようです。

地下軍需工場跡ということなので、地下への入り口が中にあるのでしょう。

面白い形ですが、この開いている横穴全てにかつては人の遺体が埋葬されていたかと思うと、ちょっとおっかないです。

おっかないと思いながらも覗いてしまうのが人の業といいますか……。

ずいぶん前に大阪の柏原市にある高井田横穴古墳群を見に行ったことがありますが、そこよりも規模がデカいんですよね、この吉見百穴は。

その柏原市の方の古墳を見に行った当時、「いつか埼玉の吉見百穴にも行きたい」と願った覚えがあります。

それから10年近く経っていますが、ささやかな願いがひとつ、かなってよかったです。

吉見百穴の頂上、見晴台から東松山駅方面を眺めます。

吉見町付近はひなびてますけど、東松山市はかなり発展した街なんですね。

大型古墳の上にある野菜直売所の存在にシビれました。

旅の途中なので野菜を変えないのが残念です。

軍需工場跡の入り口トンネル、他にもありました。

通路脇に、横穴が結構密な感覚で設けられてあるのですね。

軍需工場を作る際、古墳の石室がかなり破壊されたといいます。

現在は古墳も軍需工場跡も、共に後世に歴史を伝える保存の対象となっているわけであります。

古墳の外に咲いているこの花は、桜の一種でしょうか?

いつまで経っても花の名前がわからない、悲しい中年です。

しかし美しい花を見る楽しみは、花の名前を知らない者にも許されています。

吉見百穴はまた、古墳の横穴の中に天然記念物のヒカリゴケが自生していることでも有名です。

せっかくなので覗きに行きましたが、苔らしいものは見えたものの、光っているのかどうかよくわかりませんでした。

異色の史跡、吉見百穴

色々おっかない雰囲気はありますが、古墳好き、洞窟好きの人にはおすすめしたい名所でした。

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2022年4月埼玉旅行一日目(6)。東松山駅から市野川流域へ。上田氏の居城、吉見の松山城跡

冷汁うどんで体力がついたので、午後からも埼玉観光を楽しんで参ります。

時計塔がお洒落な、東松山駅東口の南側ロータリーです。

面白いと思ったんですが、東松山駅東口は、張り出した駅舎を挟んで北と南に二つのロータリーがあるんですよね。

これからまた東に向かって歩いて行きます。

最初から路線バスに乗ってもいいのですが、知らない街を歩くのはやっぱり楽しいので、出来る限りは歩いて行く所存です。

今回、東松山には東の果ての郊外にある「吉見百穴(よしみひゃっけつ)」という有名な古墳を見に来ています。

 

東松山の街は宅地開発が進んでおり、東松山駅の周辺は繁華街で、大通りを東に歩く間、沿道には街の風景が続きます。

これが市野川に近づくと田畑が多くなってきます。

市野川の流れです。

この東岸の際の山に、吉見百穴があります。

またこの吉見百穴の南隣には松山城跡という城跡もあります。

順次、観光して参ります。

市野川の東側を市境として、市野川と、その向こうの土地は比企郡吉見町になります。

東松山市は、東西を比企郡に属するいくつかの町に挟まれる形になっております。

東松山市の川向うにあるのが吉見町と川島町です。

まずは橋の向こうすぐの松山城跡から見学しようと思うのですが、なんだか怖いですね。

暗くて。

案内板によると、松山城は築城者については諸説あって定まらないようですが、室町時代に上田氏の居城だったことははっきりしています。

平山城と呼ばれる形態の城跡で、まあ峻険な山ではなく丘の上につくられた城、ぐらいのものですね。

 

上田氏は鎌倉時代に関東で活躍した武蔵七党と呼ばれる武士団のうちの、西党の末裔にあたる武家であったようです。

室町時代には上田氏は山内上杉氏、そして小田原北条氏に仕えました。

発祥は秩父地方の辺りなので、この吉見の地付きの土豪というわけではなかったんですね。

おそらくは山内上杉氏重臣として、比企郡の支配を任されたことから松山城に移った、というところでしょう。

そして、この上田氏の「どの大大名に付くか?」という判断により、その時々で松山城山内上杉氏方の城になったり、小田原北条氏方の城になったりしたというわけですね。

城の入り口の辺りに誰かが杖を置いてくれてあります。

コロナ禍で、共用のものをちょっと触りにくくて。

お気持ちだけいただきます。

木々に埋もれたようになっていますが、結構大規模な城跡のようです。

階段が設けてあります。

ここが本曲輪跡です。

つまり、本丸跡ですね。

城主の上田氏が小田原北条氏と共に滅亡した後は、松山城には徳川家康の家臣の松平家広(まつだいら いえひろ)が入城します。

松平家広が若くして病死すると、その異父弟の忠頼(ただより)が城主になります。

この忠頼が浜松藩主として浜松に転封されると、松山城は廃城されてしまいました。

 

ちなみにこの松平家広と忠頼の兄弟の家系は桜井松平氏といいます。

桜井松平氏は、徳川家康の祖父である松平清康(まつだいら きよやす)と争った清康の叔父の松平信定(まつだいら のぶさだ)の、子孫にあたります。

この桜井松平氏は清康子孫の松平宗家とは後の代まで仲が悪かったらしく、家広の父の忠正(ただまさ)も当初は徳川家康と戦っています。

清康と争った信定からすると忠正は曾孫にあたるので、かなり長い間対立を続けてきたわけです。

ところが後に忠正は徳川家康に仕えます。

家康からすると桜井松平氏は若干面倒な存在だったのでは?と思えなくもないですが。それでもなお松山城であるとか浜松城であるとか重要な城を任されているところを見ると、家臣になってからの忠正親子が宗家に対してよほど貢献し信頼を勝ち取ったのかもしれませんね。

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2022年4月埼玉旅行一日目(5)。坂戸の聖天宮に参拝。東松山でお昼、ビバモール東松山店の武蔵野うどん竹國

喜多院境内を出た後、ずっと西に歩いて、川越市駅から東武東上線の列車に乗りました。

埼玉県坂戸市内の若葉駅で降りて参りました。

ここは、坂戸市内の観光名所、聖天宮の最寄り駅になるのですね。

台湾道教式の本格的な廟が日本にできたということで、ネット、テレビ番組等でよく紹介されている場所です。

せっかく埼玉に来たのでお参りしようと思いました。

若葉駅の東口から、「若葉台通り」という大通りをずっと進んだ道沿いに聖天宮があるらしいですよ。

途中、明治製菓の坂戸工場なんかもありました。

歩いてきましたが、若葉駅から聖天宮まで、距離が3キロ近くあるんですよね。

駅の近くは住宅地、しばらく行くと工場地帯に入り、やがて農地の広がる田園地帯に風景が変わっていきました。

聖天宮はその田園地帯の最中にあります。

歩き疲れたところで、聖天宮の大きな建築が見えてきました。

この門の装飾がもう凄いですね。

拝観料500円を納めて入場しました。

現地の案内板によると、康國典と言う人物が、長い闘病生活からの快癒を機に、ここに道教の廟を建てることを決めたのですね。

以後、本場台湾の宮大工たちの手で建築を行い、昭和56年から15年の歳月をかけて、平成7年に完成し開廟したとのことです。

平成7年から公開しているわりには、話題に登るようになったのはごく最近の気がしますね。

以前から埼玉県民の間では知られていたのかどうか、気になります。

台湾の廟って情報量が凄いですよね。

その辺りがきっちり再現されていました。

本殿にお参りをしました。

御本尊は三清道祖という、道教における主神らしい三人の神様でした。

お参りの後、休憩所へ。

休憩所には聖天宮グッズ、台湾飲料、台湾食品などが買える自販機が何種類か設置されてありました。

台湾旅行の時に現地で飲んだ飲料もあったりで、懐かしく思いました。

ちょうど甘い飲み物が欲しかったので、タピオカミルクティーを買いました。

タピオカがごろごろ入っていて、美味しかったです。

休憩所の中にある階段から、鼓楼の上に登れます。

鼓楼を外庭側から見ると、こう。

装飾が綺麗ですね。

また若葉駅まで3キロほど歩くことに耐えられず、路線バスを利用してしまいました。

本日はまだまだ歩く予定が控えているのです。

路線バスで座ることができ、快適に若葉駅へ。

 

若葉駅から再び東武東上線の列車に乗り、坂戸市の北の東松山市にある東松山駅にやってきました。

わりと大きな駅ですよね。

ここからまた歩いて郊外の史跡を見に行くのですが、その前にお昼にしたいです。

時間はちょうど午後一時になりかけでした。

東松山駅から南に500メートルほど行くと、ビバモール東松山店があります。

ここの二階のフードコートに入っているお店に目星をつけてきたのですよ。

「武蔵野うどん竹國」というチェーン店なんですね。

昭和29年創業の竹國、本社は埼玉県狭山市にあるそうです。

武蔵野うどんは東京都の多摩地区と埼玉県西部、つまり昔の武蔵国の西部、武蔵野台地で広く食べられてきた郷土料理なんですね。

私は以前に東京の八王子を旅行した時に武蔵野うどんに惹かれ、今回の埼玉旅でも機会を見つけては武蔵野うどんを食べるつもりで来ています。

冷汁うどん、690円。

並盛350グラム、中盛500グラム、大盛700グラム、と同じ料金で選べます。

上はたしか中盛を選んだと思います。

武蔵野うどんの定番、肉汁うどんにしようか迷ったのですが、ちょっと暑くて、冷汁うどんがとても魅力的に思えたんですね。

この涼しげなつけ汁。

冷汁っていうと宮崎県の料理のイメージですが、埼玉県でも冷汁うどんは郷土料理として、古くから食べられてきたのだそうです。

厳密に言うと、肉汁うどんが主流の武蔵野うどんとは違う種類にはなるのかもしれませんね。

うどん自体は共通でありましょう。

胡麻の風味とほのかな甘さがちょうど良かったです。

武蔵野うどんと言えば、この荒々しく頼もしい食感のうどん。

たまりません。

コシがしっかりで、やっぱり美味しかったです。

ただ中盛は私には量が多く、途中からは頑張って食べていました。

500グラムだと結構な量なんですよね。

お腹いっぱいになれました。

武蔵野うどんが好きです。

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2022年4月埼玉旅行一日目(4)。喜多院参拝。川越の江戸情緒で徳川びいきになった

川越城跡の周辺には、川越藩時代からの史跡も多いです。

その辺りを順次観光していきます。

川越城の田曲輪門跡から南に500メートルほど歩きました。

喜多院成田山別院の参道です。

川越別院成田山本行院です。

幕末に千葉の石川照温という人物が、盲目になったことで自殺を考えた。

しかし自殺の直前、不動明王の姿が見えたことで信仰に目覚めた。

そのうち視力が回復し始めた照温は、当地で廃寺になっていた本行院を復興し、成田山の別院としたということです。

そういうわけでご本尊が不動明王、眼病のご利益があるということですね。

お参りしました。

さらに参道を歩いて、喜多院に着きました。

天台宗の古刹です。

平安時代最澄の弟子にあたる慈覚大師円仁(じかくだいし えんにん)の開基で、当初は無量寿寺という寺院だったそうです。

室町時代関東管領上杉氏と小田原北条氏の戦乱の中で交配してしまいますが、後の江戸時代には天台宗の僧侶で徳川家康の側近だった天海大僧正の手で復興されます。

そして家康から「東叡山喜多院」と名付けられ、関東の天台宗の本山に据えられたということです。

東叡山というと東京上野の寛永寺が著名ですが、寛永寺天台宗の関東総本山になる以前には喜多院がその任を負っていたという訳なのですね。

現在の山号は星野山。

別名、川越大師の名でも知られているそうです。

今でも広い境内の中に寺院の建築などが多数残っており、観光名所でもあります。

ちょうど私が来た頃、どこかの女子高の生徒さんたちの修学旅行なのか、若い女性たちが集団で見学に来ていて、私もちょっと写真が撮りにくい状況ではありました。

朱塗りの多宝塔です。

先に見た三芳野神社の本殿と近いカラーリングですね。

大きな本堂です。

特筆すべきは、この本堂に江戸城から移築された客殿が繋がっており、その客殿の中に「徳川家光誕生の間」と「春日局化粧の間」があるのです。

これらと境内にある「五百羅漢」を合わせて、500円の拝観料を納めて見学できます。

写真は撮っていませんが、客殿を拝観してきました。

徳川家光と、その乳母の春日局が実際にいた場所に自分が立っているというのは不思議な気持ちがしましたね。

客殿から望める中庭の庭園も綺麗でした。

五百羅漢を敷地の外から撮影しました。

江戸時代中期に志誠(しじょう)という僧侶の発願で、喜多院の僧侶たちと土地の百姓らが少しずつ羅漢の石像を納めて、五百という羅漢が揃ったということです。

土地の信仰の集まる場所なのですね。

この慈眼院というお堂は、天海大僧正の入寂後に、徳川家光の命によって天海の木像を納めた場所であります。

喜多院の境内の南側に、仙波東照宮があります。

久能山東照宮から日光東照宮まで徳川家康の遺体を運ぶ途上、ここで数日間遺体を安置したことに由来する東照宮であるそうです。

私はわりと東照宮が好きなのですが、いろんな土地に自分の知らない東照宮があるので驚かされます。

ここの拝殿には有名な絵師の岩佐又兵衛(いわさ またべえ)の手による三十六歌仙の額絵が奉納されていましたが、現在は埼玉県立の博物館で管理されているようですね。

岩佐又兵衛は摂津の戦国武将の荒木村重(あらき むらしげ)の子で、村重の謀反を受けて織田信長が村重一族を皆殺しにする中、幼児だった又兵衛は乳母の手で何とか落ち延び、成長して絵師になったのでした。

晩年を江戸で暮らしています。

彼の絵で有名なのは、源義経の母が旅の途中で野盗に殺害されるくだりを描いた「山中常盤物語絵巻」という作品で、残酷描写といいますか、非常に刺激的なのですね。

この喜多院三十六歌仙図も、又兵衛の代表作として著名みたいです。

 

ちなみにネットで知ったのですが、童謡の「あんたがたどこさ」の「せんばやまにはたぬきがおってさ」のせんばやまを、この仙波東照宮が立つ仙波山だとする説があるらしいですね。

戊辰戦争の際、彰義隊の残党を追ってこの仙波山に駐屯した熊本藩出身の兵に、地元の子どもが出身地を尋ねた歌だと。

喜多院仙波東照宮も徳川家にとって重要な場所であったのに、新政府軍の兵士の拠点にされてしまっていたのだとすると、時勢の残酷さというか、何か無残なものを感じます。

川越で江戸情緒を味わい、私も徳川寄りの気分になっているようです。

以前には後水尾天皇直筆の扁額が掛かっていたという随身門から、喜多院の敷地を辞しました。

令和の時代にあっても江戸情緒の豊かな川越を去り、私は次の土地に向かいます。

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